初臨のイエスは成功した


統一教会は、「初臨のイエスは失敗した。だから成就していないものがある。それを成就されるのが文鮮明だ」という教理を持っている。

ディスペンセーショナリズムは、「初臨のイエスは失敗した。だから成就していないものがある。それを成就されるのが再臨のイエスだ」という教理を持っている。

しかし、聖書の主張は、「初臨のイエスは成功した。だから成就していないものはない。イエスは創造世界を完成された」である。

初臨のイエスを成功者と見るか見ないか。

これが、今日の異端と正統派の違いである。

イエスは「律法と預言者(つまり旧約聖書)を成就するために来た」と言われた。

そして、十字架上で「完成した(成就した)」と言われ、息を引き取られた。

3日目に復活され、このことを確証された。

かつてソ連では、外貨がなければ、外国製品を買えなかった。

外貨ショップには日本製のラジカセなどが置いてあった。

しかし、ルーブルでは購入できないので、知り合いの外人に頼んで買ってきてもらうということが行われていた。

もし頼んだ外国人が店に入って、目当ての商品を持って出てこなければ、本当に自分のために買ってくれたかどうかわからない。裏口から出ていってネコババしたかもしれない。

もしイエスが墓の中に入ったきり出てこなければ、律法と預言者を成就したかどうかわからない。

律法の要求する血の代価を完済されたからこそ、イエスは墓の中から出てこられた。

イエスが墓から出てこられたことは、旧約聖書のすべての契約を成就し、契約遵守の報償であるところの「永遠の命」と「世界の相続者」としての権利を獲得されたことを保証する。

復活は、「初臨のイエスは成功者だった」ということを証している。

だから、初臨のイエスにつながるわれわれも成功者であり、世界の相続者になった。

ディスペンセーショナリズムは、「再臨のイエスが成功者であるから、今、われわれは世界を所有できない」と言う。

統一教会は、「文鮮明様と契約を結ばない限り、相続者になれない」と説く。

違う。

初臨のイエスにおいて、すでにわれわれは世界の相続者、王、最高権力者になった。

だから、われわれに敵対できる者はいない。

ヨシュアに向かって「行って、カナンの地を征服しなさい。私はあなたにあの土地を与えたから」と言われたように、神は、われわれクリスチャンに向かって「行って、世界を征服しなさい。私はあなたにすべての土地を与えたから」と言われた。

それが、大宣教命令である。

「行って、すべての国民を弟子としなさい」

全世界の弟子化。

これが必ずできるのは、すでに世界の所有権がわれわれに移行したからだ。

世界を支配する権利が法的にあるのだから、実際に働くことによってそれは現実化する。

法的権利がある以上、この戦いは勝利以外にありえない。

しかし、サタンはこの法的事実を隠そうとしている。

それで、「初臨のイエスは失敗者だった」という教えをはびこらせようとしている。

勝利のためには、徹底的な信仰を持つ必要がある。

「イエスに対する絶対的な依存」がなければならない。

聖書に対する疑い、人間理性を究極とするような現代人の認識論を持っているならば、それが隙間になって、サタンの火矢が心に突き刺さり、思い煩いによって心が燃やされてしまう。

疑い、不徹底こそが、われわれを弱体化している。

 

 

2014年7月29日



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