神の国のために働くように選ばれた幸いを神に感謝する


求人誌を読むと、いろんな仕事がある。

しかし、自分ができる仕事はごく限られている。

無理をして自分に向いていない仕事をしても、長続きはしない。

結局、落ち着くべきところに落ち着く。

動物や植物、昆虫も、自分に合ったところに棲みつく。

選択肢は多いようで実は少ないのである。

研究者は自分にしっくり来る研究対象と出会うまでさまよい歩く。

同じ研究者だから何でも研究できる、というわけではない。

自分が打ち込める対象でなければ、研究したいと思えない。

それは、非常に狭い分野である。

同じ神学だからといって、何でもいいというわけではなく、私の場合、本文批評学をやろうとは思わない。

興味があり、打ち込むことのできる分野は非常に狭い。

これが、人に与えられた「分」である。

世界は、神が一人一人に割り当てた「(持ち)分」で構成されている。

それゆえ、被造物はすべて、神の計画と摂理によって自らに与えられた「分」を果たすべく「配置されている」。

自分で選択したと思っているかもしれないが、神がよしとされなければ、その職業につくことはできない。

報酬がいいというだけで仕事を選ぶと「場違い」な感じを持ちながら働かねばならなくなることが多い。

外見だけで配偶者を選ぶと、上手く行かなくなることがある。

美人の奥さんをもらった野球選手が、離婚して、最終的に、外見がよくない奥さんをもらう例がいくつか見られる。

それは、きっと、一緒にいて落ち着くとか、しっくりくる、つまり、自分の本質的な必要を満たしてくれるからなのだろう。

わたしがラッシュドゥーニーの著書と出会ったときに感じたのは、自分にしっくりくるという気持ちだった。

なぜ自分は聖書的なキリスト教を信じることができるのか。

それは、それが自分の本質的な必要を満たしてくれるからだ。

すべて神の民として生まれてきた人は、偽物では満足できないはずだ。

われわれが、アルミニウス主義ではなく、再建主義に落ち着いたのは、もともとそのように作られているからなのだ。

真理以外のものを受け付けないのは、神の民として選ばれているからだ。

では、共産主義がしっくり来る人はどうなのか。オウム真理教や統一協会やものみの塔、ディスペンセーショナリズムから離れられない人はどうなのか。

それはその人の本質がそれに合っているからにほかならない。


あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。(ヨハネ8・44)

パリサイ人が偽りを信じ、神に敵対したのは、環境が悪かったからというわけではなく「あなたがたの父である悪魔から出た」からである。

すべては神の配剤なのである。

歴史は、各自に与えられた役割を演じるために備えられた舞台である。

神の国のために働き続ける人は、そのように選ばれたからであり、悪魔の国のために働き続ける人は、そのように選ばれたからである。

悪魔のために働くように定められた人には、気の毒としか言いようがないが、仕方がない。

神が決定されたことであるから。

自分が神の国のために働くように選ばれた幸いを神に感謝する。

 

 

2017年9月26日



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