最終的には、聖書の基準を適用する者が生き残る


同性愛は遺伝の問題でも、環境の問題でもなく、道徳の問題。

遺伝や環境が原因であれば、それらを批判したら差別ということになる。

たとえば、民族で人を差別することは罪。

劣悪な環境のゆえに苦しむ人々を差別することも罪。

しかし、道徳的な問題を持つ場合、差別することは罪ではない。

たとえば、万引きをした人を警察につきだして、社会的な制裁を加えることは罪ではない。

同じように、同性愛は道徳的な問題なので、批判しても罪ではない。

「いや〜、それは聖書を信じる人々にとって罪であって、信じない人にとっては罪ではない」と反論されるかもしれないが、「じゃあ、同性愛を合法化し、教育で普及させ、巷にホモが増えてもいいというならやってみてください」としか言えない。

確実に、報いがくるから。

神は同性愛の町ソドムとゴモラを火で滅ぼされた。

社会的に誰にも迷惑をかけていないなら、良心に反することであってもやってよいということが世の中で通用するかという問題。

海老名市の市議たちも、同性愛容認するオバマも、心の中で「これはやってはいけない」と知っている。

同性愛にふけって罪悪感を感じないなら、それは道徳的に堕落して無感覚になっているからで、普通の人は、後ろ髪を引かれて堂々とはできない。

結局、理屈はどうあれ、人間は、神と直面せざるをえない。

「神はいない」なんていう人は、自分をごまかしているだけで、本当は知っている。

ローマ書には、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1・20)とある。

さらに、「それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。」(ローマ1・19)とも言われている。

どんな人にでも「神が明らかにされ」た。

つまり、「神はいない」という人のところには必ず神が現れて「明らかにされ」る。

だから「弁解の余地はない」。

いくら海老名市議たちが「同性愛批判は差別だ」と言っても、その市議たちのところに神は必ず現れて「これは罪だ」と言われる。

神から逃げることはできない。

なぜならば、神はこの世界で起きるあらゆることについて主権者であり、その主権を行使することにためらわれないから。

結局、自分をだまし、他人もだまして「これは罪ではない」と言い続ける人がいたとしても、彼は最終的に神の裁きに服することになる。

それゆえ、誰かが同性愛は罪で、法律で規制すべきだと言って、それに対してむかついて、噛みついても、結局、神から裁かれて地獄を見るしかないので、解決にはならない。

聖書が示す基準を前にして、人間は、受け入れるか、滅びるかの二者択一しかない。

だから、われわれは、どんな批判も意に介さない。

最終的には、聖書の基準を適用する者が生き残る。

 

 

2015年12月29日



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