ポスト・ミレだけでセオノミーがないと何にもならない


18世紀アメリカの植民地ニューイングランドにおいてポスト・ミレを推進したのは、有名なジョナサン・エドワーズであるが、それにもかかわらず、ニューイングランドはアルミニウス主義とユニテリアンに占領された。

なぜか。

それは、エドワーズが無律法だったからだ。


ジョナサン・エドワーズとその追従者たちが18世紀に始めたポスト・ミレのリバイバルの大きな欠点は、律法軽視であった。

…エドワーズのTreatise on the Religious Affectationsを読みたまえ。

文化における神の法に関する記述がまるで見られない。次から次へと出てくる言葉は、「sweet(甘美な)」と「sweetness(甘美さ)」である。

糖尿病の読者がこの本を一気に読むと病気が悪化するだろう。これらの言葉は、1ページに四五回現れる。エドワーズは神の甘美さについて説教し、文字の読めるアルミニウス主義者たちは、コネチカットの聖なる共同体を政治的無律法主義に変えつつあった。

甘美さと感情的な熱情の発露に関する限り、カルヴァン主義者の説教は、無律法主義者にはかなわなかった。

待ち望まれた1700年代のリバイバルは、1800年代初期のアルミニウス主義者のリバイバルに代わり、その後には、感情的に燃え尽きた地区、カルト、奴隷解放運動が、荒廃の遺産として残された。

エドワーズ主義者たちのポスト・ミレの説教は、文化的に無律法主義であり、敬虔主義であった。

そのため、ニューイングランドの植民地のカルヴァン主義の政治体制の中で残存していたものを破壊し、そこに真空を作り出した。

結局、アルミニウス主義とユニテリアンたちがやってきてその真空を埋めた。
(Gary North, Common Grace, Eschatology, and Biblical Law, Journal of Christian Reconstruction vol. III, No.2, 1976-1977, p35.)

ポスト・ミレだけでは足りない。

セオノミーが必要だ。

ポスト・ミレの希望だけ唱えても、具体的に体制を作りだすビジョンがなければならない。

聖書法がなければ、クリスチャン独自の政治体制は生まれず、そこに真空ができる。

リバイバル運動は所詮、真空を作りだすのを助けるだけだ。

人々を熱狂させ、熱狂した後に何が残るのか。

福音派の伝道やカリスマ派の熱狂の後には真空ができた。

なぜならば、具体策が何もないから。

「再臨です!まもなく主イエスが来られます!」

われわれが「わかりました。それでわれわれは今何をすればいいのでしょうか。」と尋ねると、「ただひたすら祈って再臨を求めればいいのです。あと、再臨のときに携挙してもらえるように人々に伝道しましょう」との答えしかない。

現実を変革する動機も、手段も、戦略もない。

だから、真空が生れる。

たとえ福音派やカリスマ派がポスト・ミレを採用したとしても、セオノミーがなければ、同じ現象になる。

それは歴史において証明された。

アメリカが、フリーメイソンによって乗っ取られた背景には、無律法主義者のポスト・ミレの運動があった。

 

 

2012年11月27日



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