考え方を「科学主義」から「契約主義」に変えるべきだ



どこかの書庫に何世紀も埋もれていた写本は制作年代が古いのでより信頼でき、歴史において大部分のクリスチャンが使っていた写本は新しいので信頼度が低い。

これが今のキリスト教が採用している聖書写本の選択基準である。

つまり、「新しいか古いか」が基準だと。

しかし、われわれは「大多数のクリスチャンが使用してきた」が基準であると考える。

なぜならば、「神は誠実な方だから」。

誠実な神が、ウェストコットとホートの底本が出る前の1900年もの間、ほとんどのクリスチャンに御言葉を隠されるだろうか。

「信仰よりも科学」を優先したからこういうことになった。

キリストとクリスチャンは契約を結んでいて一体である。

自分の体に栄養をいきわたらせない人間がいるだろうか。

自分の体に指令をいきわたらせない中枢があるだろうか。

最近になって発見されたというユダの福音書などが偽典であるのは、「非契約的」だからだ。

神の誠実を否定するから間違いなのだ。

いかに科学的な証拠がそろっていたとしても、キリストとクリスチャンの契約関係を損なうような理論を受け入れてはならない。

ダビンチコードとか、ユダの福音書とか、ウェストコットとホートとか、一顧だにすべきはでない。

見ないで捨てていい。

旧約時代において神は預言者を通じて御心を契約の民に通知された。

いかに邪悪な民であっても、契約に属する以上、情報を伝えることを契約的義務と考え、神は預言者を使わされた。

このように情報伝達は契約の要諦である。

だから、2000年間も埋もれていた福音書とか写本があるはずがない。

2000年間契約の民に御心を隠される神などいない。

考え方を「科学主義」から「契約主義」に変えるべきだ。

 

 

2013年12月6日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net