知らぬ間にパリサイ派の側に立ってしまったクリスチャンたち


イエスが戦われたパリサイ人とは、ユダヤの祭司たちの多くが捕囚中に学んだバビロンの科学から生まれた。


クインズバラ婦人(エディス・ミラー)は著書Occult Theosophyの中でこのように述べた。

「ユダヤの祭司たちの多くが捕囚中に学んだバビロンの科学からパリサイ派が生まれた。この名前は聖書と捕囚後のユダヤ人歴史家以降(紀元前606年)の著作にしか登場しない。著名な科学者ムンクは、著作の中で、捕囚時代にこの派が生まれたという点に疑問を呈していない。『カバラまたはパリサイ人たちの伝統が生まれたのはその時代である。長い間、彼らの教えは口伝に限られていたが、後にタルムードとしてまとめられ、最終的にSepher ha Zoharという書物になった。』」
(Edward Hendrie, "Solving The Mystery of Babylon the Great")

つまり、パリサイ派とは、バビロンの異教に由来する。

カバラ思想は、パリサイ派と同時にバビロンにおいて生まれた。

そして、それは後にタルムードを生んだ。

このパリサイ派やカバリストたちは、ローマ・カトリックに影響を及ぼした。

ネスタ・ウェブスターの古典的な名著Secret Societies and Subvertive Movementsでは、カバラ思想がどのようにしてローマ・カトリックに導入されたか記している。それは、法王シクスタス4世(1471-1484)によってであった。

「15世紀の神秘思想家ピコ・デラ・ミランドラがカバラの教育を受けたのも、同様にフロレンスのユダヤ人アレマヌスまたはダトゥルスからであった。彼は、自分がそのうちにキリスト教の教えがあること発見したと思った。法王シクスタス4世はこのことを喜び、すぐにカバラの書物をラテン語に翻訳し、神学校の生徒に読ませようとした」。

(Edward Hendrie, "Solving The Mystery of Babylon the Great")

ローマ・カトリックには、イエスと対抗したパリサイ派の考えが入った。

パリサイ派の影響はイエスの時代に強くおよび、彼らのメシア像が、ユダヤ人に間違ったイメージを与えた。

それについてエディス・ミラーは次のように述べた。

彼らが最も繁栄したフラヴィウス・ヨセフスの時代に、その数は6千人ほどになった。この知的な汎神論者のグループは、すぐにユダヤ人に対して直接的な影響を及ぼすようになった。さらに、彼らの民族的な感情を害することのない教えが教義の中に現れた。汎神論的なバビロン主義にどれだけ侵されていたとしても、パリサイ派は、民族的なプライドを傷つけることなく保った。この、バビロンで吸収した人間を神とする宗教は、ユダヤ人の利益にのみ役立つものとして理解された。つまり、他の民族よりも優秀で、予定された存在であるという理解である。正統派のユダヤ人が律法の中に見出した世界支配の約束を、パリサイ派は、モーセの神の諸国民に対する支配という意味に解釈せず、ユダヤ人が世界に対して押し付ける物質的な支配と解釈した。期待されるメシアは、もはや原罪の贖い主ではなく、世界を導く霊的な勝利者でもなく、一時的な王、流血の戦いの中でイスラエルを世界の主人に仕立て上げ、「すべての民族を自らの戦車の車輪の下に巻き込む」王と解釈した。
(Edward Hendrie, "Solving The Mystery of Babylon the Great"、36ページ)

イエスは、この「軍事的メシア」として期待されていたが、十字架にかかり、死亡したため、多くのユダヤ人が失望した。

このような軍事的メシアは、今日ローマ・カトリック、そして、ローマ・カトリックが生まれたディスペンセーショナリズムに引き継がれている。

メシアは、ロスチャイルドが作ったイスラエル国の神殿から支配する。

彼の威光を見た人々は、彼の前に跪くだろうと。

聖霊による内的確信、生まれ変わりによるのではなく、外面的な力を見て人々はメシアを信じるようになるだろうと。

このように、今の教会はローマ・カトリック、プロテスタントを問わず、ことごとくパリサイ派の信仰になっている。

そして、ロスチャイルドをはじめとするパリサイ派の子孫たちは、様々な革命や戦争を通じて、この世界帝国を築いてきた。

アメリカ独立すらも、ハイム・ソロモンというユダヤ人の資金によって実行された。

われわれは、知らないうちに、自ら非難していたはずの、パリサイ派の信仰になっている。

この大きな誤謬から脱出する必要がある。

新しい世代は、ぜひこの改革に参加してほしい。

古い世代は、なかなか立場を変えることが難しいだろうが、変えなければ、自分が信じる信仰によって世界を破壊しているという過ちを犯してしまう。

これと比較すれば、様々な教派の運動は、遊びに過ぎない。

この働きの巨大な価値を理解するのはだれか。

 

 

2015年4月15日



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