1.
ヴァン・ティルの師匠ゲルハルダス・ヴォスは、洪水前の期間について次のように述べた。
神の恵みが世の中に自由に注がれ、短期間のうちに大きな成果をあげることを神が許されたならば、罪の真の性質や結果は不十分にしか開示されなかったことであろう。人間は、実際には神の恵みの産物でしかないものを、あたかも自らの相対的な善性に由来するかのごとく解釈したことであろう。それゆえ、贖いの御業がさらに進む前に、罪の下降傾向がはっきりと例証されたのである。それは、その後に、この罪の下降運動に照らして、贖いの上昇過程が本当は神によって引き起こされたことが高く評価されるためである。
(Geerhardus Vos, Biblical Theology, Eerdmans, 1948, p.45)
洪水前、人類には、カインの系列とセツの系列があった。
カインの系列は、神に離反する人々の流れであった。
セツの系列はアベルのそれであり、神に従う人々のそれであった。
この流れは、雑婚によって次第に混ざり合い、最終的に一つになった。
そのいずれにも属さなかったのは、ノアとその家族だけであった。
どうして神は、罪を放置されたのであろうか。
もし恵みが豊かに注がれたならば、人類の罪は抑制され、洪水には至らなかったであろう。
それは、
1.人間が自由の中に放置されると、罪を犯し、その度合いが拡大することを示すため。
2.人間の罪の真の性質とその結果が明らかにされるため。
3.人間や社会が発展するのは神の恵みのおかげであり、人間の固有の性質によるのではないということが明らかになるため
である。
神の贖いの御業が進展する前に、人間の罪の悲惨さが自覚されなければならない。
人間だけではどうしようもなくなる、ということが人々に理解され、キリストの贖いの御業がどうしても必要であることが明らかにならねばならない。
そのため、神はあえて人々に自由をお与えになった。
これは、恐ろしいことである。
罪を犯しても裁きが来ない。
懲らしめの罰が来ない。
だから、どんどん人間は傲慢になり、暴虐に走るようになった。
地上には、殺人や同性愛、あらゆる悪がはびこり、ノアとその家族以外、地上は悪人で満ちあふれた。
ノアが箱舟を作っていると、集まってきてあざけった。
つまり、神に対して傲慢になっていたということだ。
「罪を犯しても裁きなどない。神はいない」と叫んだ。
このような状態は呪いである。
恵みの中にいる人は、常に神を恐れて反省する。
常に悔い改める用意がある状態。これが、祝福の証拠である。
呪われている人は、反省しない。
ある時、突然雨が降り出した。
その雨はやまなかった。
あざけった人々は水に飲まれた。
神は、洪水で滅んだ人々に恵みを停止された。
なぜならば、後世の人々にとって教訓を与えるためだ。
罪を放置されると人間はどうなるか、を示すためだ。
人間には贖いが必要であり、恵みが必要であるということを示すためだ。
2.
共産主義の失敗が明らかになるまで、人々は「人間だけで理想世界を作れる」と考えていた。
若者は「神抜きの理想社会」を夢見て革命運動に参加した。
結果は、1億人の大量粛清と大虐殺。
今、左翼をやっている人々は、歴史から何も学べない人たち。
つまり、何度も洪水の中で滅ぶ人々。
共産革命の失敗の後に「人間が幸せに生きるためには、神の恵みと祝福が不可欠である」と悟れない人は知恵がない人。
犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す。(箴言26・11)
3.
19世紀から20世紀に「社会主義という実験」が起きて失敗したということは、何を意味するのか。
「贖いの上昇過程」が起きるということ。
つまり、リバイバルである。
にっちもさっちも行かなくなった人類が、イエス・キリストの贖いを求めるようになる。
学生時代、運動系のクラブ活動を終えた後のファンタは格別においしかった。
体が水分を欲しているときと、欲していないときでは、水分に対する感謝の度合いは違う。
神は今、あえて同性愛やハロウィン、オカルトなどを放置しておられる。
「人間だけだと、どうしようもなくなる」と気づくまで。
友人によると、オジー・オズボーンは「もうサタニズムは古い」と言ったそうだ。
私は、本当に「悪魔ものの流行」にうんざりしている。
グローバリストによる国家解体にうんざりしている。
ルシファー礼拝者による世界政府建設にうんざりしている。
イエス・キリストに向かわないと、状況はさらに悪化する。
だから、リバイバル以外に解決はない。
ただし、グローバリストが作り出した似非リバイバルはだめ。効果なし。
一日も早く人々が「イエス・キリストを信じる以外に解決はない」と悟れるよう、祈りましょう。