隙を作らないことである
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精神が不安定な人が増えている。
なぜならば、聖書の基本的な知識がないからだ。
霊の世界の知識も経験もないからだ。
自分を支える神学がない。
この世界は、霊の戦いの舞台である。
隙を作れば、すぐに悪霊が火矢を入れて、心の中を燃やしてしまう。
不安に陥るのはなぜか。
自分を信じているから。
聖書を信じ切っていないから。
自分を信じることは、20階に止まった、ロープの切れそうなエレベーターに乗るのと同じ。
われわれは状況が変わればすぐに影響を受ける弱い存在なので、ロープはすぐに切れる。
高いところにエレベーターを設定すると切れたときに、下に落ちて死ぬ。
しかし、神を信じ、聖書を信じるならば、最下階に止まったエレベーターに乗るようなものなので、それ以上、下に行けない。
安定している。
宇宙が創造される前に神しかおられなかった。
神の自己認識こそが、聖書の認識論の前提である。
それ以上、さかのぼることができない究極の土台とは、宇宙の創造前にあった知識である。
神はご自身について完全にご存じである。
神にとってご自身の中に陰に隠れている部分はない。
人間は、自分でも自分について知らない部分がある。
CTなどで体の内部がわかる。
経験を積むうちに自分の才能について知るようになる。
しかし、神はご自身を完全に知っておられる。
神の三位の互いにおける完全な知識こそが、究極のもっとも確実な絶対的に知識である。
これこそが、われわれの究極のよりどころである。
だから、それを疑うことはできない。
クリスチャンが聖書を疑うということは、20階のところにエレベーターを戻すことに等しい。
自分に神と聖書を裁く地位を与えた。
人生に試練が襲ってきて、そのロープが切れたとき、エレベーターもろともストーンと落ちる。
知識の土台を、「それ以上掘り下げることができない神の知識」に置くべきだ。
そして、聖書の言葉を究極の権威とすべきだ。
そうすれば、不安になってサタンの餌食になることはない。
私は不安になりそうなときに、「聖書は何と言っているか。ああ、そうかこう言っているな。じゃあ、これ以上迷うことをやめよう」とスパっと不安を切り捨てる。
志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。(イザヤ26・3)
2014年3月8日
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