世界は、どうあがいても、キリストを主とする御国に変わる
1.
聖書は、民主主義を教えていない。
聖書が教えているのは、神主主義である。
民主主義は、民を主として拝む偶像礼拝である。
クリスチャンが目指すべきは、聖書の神を拝み、主とし、その御言葉を絶対権威として敬う国家である。
このような国家では、体制を維持するために、選挙権・被選挙権は聖書を絶対権威とし、聖書の神のみを拝むクリスチャンに限定される。
2.
他宗教の人々は国民として生活する権利は与えられるが、施政権は与えられない。
会社の役員人事を決める選挙権を社員全員に与えたら、会社はまともに機能しない。
なぜならば、社員として採用した人間がどういうスタンスを取っているか明らかではないからだ。
役員になる人は、仕事において実績があり、会社に貢献し、株主の利益を増大させることが証明された人である。
このような実績のない「まだ会社に貢献するかどうか明らかではない」平社員にまで選挙権を与えたら、容易に会社は傾く。
株主もそんな不安定な会社に投資しようと思わないだろう。
選挙権は、組織に対する責任を果たすことを証明されていない人には与えてはならないのである。
「帰化したから選挙権を与える」では、日本は容易に外国勢力の乗っ取りにあう。
帰化に際して厳しい審査があればいい。しかし、実際は、その人が日本に対して忠誠心があるかどうかの試験は行われていないのである。
こんな人々に帰化を許可している現状では、早晩日本は革命工作の餌食になる。
普通選挙権の危うさは「国への忠誠心を不問にしている帰化制度」にある。
同じように、聖書的な体制を確立しても、選挙制度が「忠誠心」を土台としなければ、容易にサタンの転覆工作によって崩れてしまう。
組織には、常に二階層構造が必要なのである。
(1)組織に属する人々と、(2)組織の維持と発展に責任を持つ運営者の区別をする必要がある。
3.
「国民を一級と二級に分けるつもりか」という人がいるかもしれない。
いや。「国民になれるのは聖書的クリスチャンだけ」という規則を作れば、二階層構造は不要である。
この規則のもとでは、国民全員に選挙権を与えることが可能である。
ただし、聖書的クリスチャンではない人は外国人として扱われる。
要するに名前の問題である。二階層構造を排除することはできない。
4.
「思想信条言論の自由を侵すつもりか」という人がいるかもしれない。
思想信条言論の自由は認められても、聖書的キリスト教を信じない限り、選挙権は与えられず、国家運営の責任者にはなれない。
神が「地を従えよ」と命令されたのは、神を主として拝み、御言葉を絶対とするアダムに対してであった。
アダムは失敗したため、支配権を失った。
キリストがアダムの失敗を克服し、地上支配権を回復した。キリストにある人(聖書的クリスチャン)ならば誰でも地上を支配する権威が与えられる。
施政権は聖書的クリスチャンにのみ与えられる、というのが聖書の主張である。
5.
すべての国家は、このような体制に必ず変わる。
これは、神が永遠の昔に定められた歴史のコースである。
全能の神の意志であるから、絶対に実現する。
どんなに逆らっても、この計画を妨害することはできない。
キリストは「わたしはすでに世界を征服した」と宣言された。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16・33)
・・・悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4・7)
2018年9月13日
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