神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。2


今、あなたは崖の前に立っているとする。

左横に大きな岩がある。右横に風船が糸でつながれてフワフワ浮いている。

崖の下を覗かねばならない場合、どちらに寄りかかるか。

もちろん大きな岩である。

「まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。」

身分の低い人と高い人を合わせても息より軽い。

つまり、ヘリウム風船である。

「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。」

神は不動の岩である。

どちらに頼るべきか自明の理である。

現在、教育は共産主義者に支配されている。

TVで「尾木ママ」の名で出ている法政大学教育学教授にして元日教組組員尾木直樹曰く、


「日教組の考え方は全て正しいが、
今教育現場で起こっている問題の数々は、
日教組の考えが
まだまだ徹底されていないこと」
http://ameblo.jp/kec1238/entry-10723128982.html

もちろん、日教組は、共産主義者の集まりである。

共産主義者は無神論であり、神に頼ることを教えない。その代わりとして、人間の組織に頼るように教える。

アメリカ教育学の泰斗デューイ曰く、

「学校が社会の子どものひとりひとりを、このような小社会の一員たりうるところまでみちびき、訓練し、奉仕の精神をしみこませ、有効な自己指導の諸手段を供するときに、われわれは、価値高い、美しい、そして調和のとれた大社会にたいする最高・最善の保障を得るであろう。」

「大社会」に貢献する人間を要請するのが学校の使命である。

デューイの師匠であるヘーゲル主義者ジョージ・S・モリス博士曰く、

…教育は、子供中心ではなく、国家中心であるべきだ。ヘーゲルは、『子供は、社会の歯車として機能しない限り、個人としての価値はまったくない。』と考えていた。 

世界の教育学に対するヘーゲルの影響は強烈である。

ヘーゲルは、国家を神とする体系を作り上げた。

つまり、今の教師たちは「神ではなく、人間に頼れ」と教える。

すでに述べたように、人間はヘリウム風船のように軽い。

頼りがいがない。

今の教会は、ヒューマニズムの影響を強く受けているので、教会そのものが人間に頼らせるシステムになっている。

神学生は、教会や教団の命令に絶対服従するように「訓練」される。

組織は、個人が独立して思考することを嫌う。支配しにくくなるからである。

そのため、牧師は、「聖書的であるか?」と考えるよりも先に「教団の方針と一致しているか?」と考える。

(もちろん、組織の権威を尊重すべきである。組織の中で自我を張ることを勧めているのではない。牧師がもし独自の考えがあり、教団の方針と一致せず、和解の努力をしても通じなかったら、穏便に立ち去るべきである。秩序をかく乱してはならない。)

本当の聖書的組織は、個性を恐れない。

なぜならば、本音で生きているから。

聖書から徹底して考え、神に忠実であるならば、どうして個性を恐れる必要があるだろうか。

嘘や非聖書的教えがあるから個性を恐れるのだ。

われわれは組織に献身しているのではなく、神に献身しているのである。

だから、組織が間違っている場合、神を選択すべきである。

神は岩なので、神に頼る者は動かないが、組織というヘリウム風船に頼る者は、崖から落ちる。

 

 

2015年9月27日



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