(1)
最近、小さな傷が化膿して、大きく腫れたのでかかりつけの病院に行ったのだが内科医しかおらず、抗生物質を渡されて帰宅した。
抗生物質を飲んでいるうちに傷がみるみる小さくなり、腫れもほとんどなかったが、次回訪れたときに、外科医は、切開すると言った。
麻酔を打ったにも関わらず、切開に痛みが伴った。
痛かったですか、と尋ねられたので、「いや〜、痛かったですね」と言ったら、どうやら文句として解釈されたようだ。
翌日行ったら、待合所に新聞広告が貼り出されていた。
曽野綾子の『人間の基本』という著書の広告だ。
そこに「体制や社会的環境に文句を言って、己を顧みないのは人間ができていない証拠だ」みたいなことが書かれていた。
あれ?これは私に対するあてつけなのだろうか、と思った。
病院の待合室に場違いな著書の広告。何かのメッセージに違いない。
そこで、私は思った。
「私は、今、この病院にお世話になっている以上、この医者は私にとって一種の権威である。だから、その痛い治療は、神が私に与えた運命だろうから、その治療を甘受しよう」と。
そして、こう思った。「しかし、私が文句を言わずに痛い治療を甘受することは、それによって、この病院が神の基準に合致していることを必ずしも意味しない。権威をかさにきて、自己の技術向上への努力を怠るならば、市場競争を通じて、この病院は淘汰されるだろう」と。
私は、これこそ、真の革命だと思う。
つまり、服従を通じての体制変革である。
この原理とは、次のとおり。
1.自分個人としては、上にいる権威を尊重し、その命令に可能な限り従う。
2.しかし、その服従によって、かえって、その上司の頭の上に炭火が積み上がる。
3.神がその怠惰で傲慢な上司に裁きを下される。
クリスチャンにとって、復讐は禁止されている。
しかし、クリスチャンは王なので、何らかの形で正義を求めることができる。
それは、直接的な反抗ではなく(直接的な反抗が許される場合もある:投票や不買など)、服従や善を通じてである。
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。
神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。
「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」と主は言われる。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12・19、12)
私は、服従を貫くことによって悪霊に取りつかれたとしか思えない上司や先輩を破滅に導いたことが何度かある。
意地の悪い妨害をする先輩が傘を忘れたときには、自分のを使ってくださいと申し出たり。
神はある程度のところで「もうこれくらいでよろしい」と合格のハンコを押してくださる。
それ以降は、神の裁きの時間である。
私は何もしない。
私が行ったのは、素直に服従して、相手に利益を与えることだけである。文句ひとつ言ったことはない。
しかし、神は彼が私に泣きついてくることを許された。
ロシアで10か月研修を行った最後の日に、さんざん私を馬鹿にしていじわるした彼は、自分の身の上話を始めた。そして、自分のロシアでの生活は失敗だったと。
その反面、私のロシアでの生活はハッピーエンドで終わった。実に充実した10か月であった。
こちら側で相手に悪事を行うならば、神からの裁きはない。
できるだけ善を積み上げることである。
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。(ローマ12・20)
人間のレベルにおいてわれわれは、敵に対して善を行うべきだ。
しかし、正義が地を支配することを望みつつである。つまり、悪人が滅んで神が裁きをつけてくださることを願いつつである。
神の裁きをまねく最大の武器は、相手に善をおこなうことである。
敵を利することである。
日本が黙々と朝鮮人に対して行ってきたように、敵を支援をする。
そうすれば、支援されてなおも日本を罵倒し、国際社会において恥辱を与えるこの民族に神の裁きがくだらないわけがない。
われわれは、復讐を期待すべきだ。
しかし、それを自分の手でやってはならない。
神が働かれる時まで待つべきだ。
そのような忍耐ができないようでは、この地上に義をもたらすことはできない。
(2)
だからといって、敵に対して訴訟を起こして、合法的な解決を国から受けることが悪であると言っているわけではない。
忍耐し、敵を利することによって、自分の学業が支障をきたし、学校生活が苦痛でたまらないレベルにまで至ったならば、法的手段で対抗すべきだ。
つまり、先生や校長、教育委員会などに訴え、警察、そして、訴訟に出る。
いじめる側は、抵抗されないから、ますます悪霊に憑依されるのである。
相手に罪を犯させないためにも、抵抗の意思を示すべきだ。
私は、言論において、相手に対して「こちらを馬鹿にすると、痛い目にあうぞ」と示すことは重要だと考えている。
やられたらやり返すぐらいの勢いがなければ、カオスになる。
しかし、あくまでも合法的な枠内においてである。
(3)
訴訟に出ることは、復讐ではない。
正しい裁きを国家から期待することである。
国家は、神の代理人であるから、訴訟を起こすことは、神の審判を期待することに等しい。
(4)
クリスチャンの原理は次のとおり。
1.われわれは義の支配を望むべき。
2.われわれに害を与える者については、服従と利敵によって神の裁きを期待すべき。
3.自分で復讐してはならない。
4.「服従と利敵」と「訴訟や権威への訴え」は矛盾しない。
5.しかるべき方法を取るならば、最終的に地上に神の義が実現する。