キリストにあってクリスチャンには、支配者としての特権がある。
この特権を利用するうえで重要なのは執拗な祈りと労働である。
「法的にわれわれは支配者なのだから」とたかをくくって、あたかも自動的に富や権力や祝福がやってくると考えるのは間違いである。
1.
神は堕落前のアダムに「地を従えよ」と言われたが、その具体的な内容は、知的及び肉体的労働であった。
神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。(創世記2・15)
人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた(創世記2・20)
アダムは、園の耕作と防衛、そして、命名を行った。
われわれは、キリストを通じて、アダムのこの使命を再度与えられた。
世界にエデンの園を広げる前に、まずエデンの園においてきちんと義務を果たす必要がある。
アダムが園の外に出ていく前に、きちんとエデンの園を管理できるか試されていた。
エデンの園とは、世の中に出ていく前の学校のような訓練の場所でもあった。
耕すとは、すなわち、生産活動である。
クリスチャンは、生産活動に従事し、労働を通じて付加価値のあるものを製造すべきである。
守る、すなわち、防衛である。
これは、国防など武力によるだけではなく、知的にも神の国を防衛する必要がある。
聖書的に正しい教えや自然科学的及び社会科学的真理を守ること。それゆえ、教育が必要になる。
アダムの失敗は、神の言葉に固執できなかったことにあった。
神の言葉はアダムにとって「前提」である。
それに対する疑いは、ことごとく罪である。
アダムは教理の防衛に失敗した。
われわれも、偽教理に騙されるならば、失敗者の烙印を押される。
ディスペンセーショナリズムに騙されているようでは、「神の国を広げるために外に出て行け」という命令を与えられるわけがない。
園での訓練の段階で失敗している。
命名は、科学の活動を意味する。
命名のためには、特徴を捉え、分析し、合理的な判断が必要である。
エデンの園という学校における務めの一つは科学である。
2.
イエス・キリストは、第2のアダムであり、王・預言者・祭司の三重の使命を帯びている。
それゆえ、第1のアダムにも同じ使命が与えられていたはずである。
アダムは、王・預言者・祭司として創造された。
1では王と預言者としての使命について述べた。
ここでは祭司の使命について述べる。
イエス・キリストにつくクリスチャンは、みな祭司である。
つまり、人々のために「とりなし」を行う。
世界が平和であるように祈る。
世界が虚偽から解放されるように祈る。
世界にサタンの勢力が広がらないために祈る。
家族や親族、他のクリスチャンのために祈る。
アブラハムがロトのために祈ったように。
われわれが人々のために祈ることをやめると、世界にとりなし手がいなくなる。
そのため、サタンが勢力を増して、邪悪な国や指導者が起きて、世界が奴隷化される。
六本木にある66プラザには、蜘蛛のオブジェがある。
このオブジェは世界中にあり、ロンドンにあるものには「シオニズムの精神」という名がつけられている。
http://www.millnm.net/qanda4/londonolympicilluminati.htm
これは、イルミナティによる意志表明である。
つまり、「世界はシオニストによって牛耳られている」という意志の表れである。
世界は、現在、シオニストが吐き出した蜘蛛の糸によってぐるぐる巻きにされており、世界の人々は身動きがとれなくなっている。
彼らはこれから獲物になった世界の人々の調理を始める予定である。
われわれは、世界を真に支配しておられる神の祭司であるから、われわれが祈れば、彼らは解放される。
クリスチャンが祭司として祈りの活動をしなければ、世界の人々はシオニストに食いつくされる。
この活動は、われわれしかできない。
だから、われわれはイルミナティ、シオニスト、サタニストの活動を祈りによって妨害しなければならない。
3.
なぜ本来祝福されるべき神の民が貧困なのか。
なぜ本来呪われて弱くなるべきサタニストが裕福なのか。
祭司の活動を怠っているからだ。
祈らないので、お金の流れが、サタニストに向かっている。
その流れをこちらに向けることは可能だ。
祈れば、お金はこちらに流れてくる。
なぜ祈らないのか。
「清貧は美徳である」という偽教理に騙されたからだ。
世界の王として任命されたクリスチャンが、自分の使命を忘れて、「再臨を待望する」ことしかしなくなったからだ。
われわれには、富と権力を引き寄せる権利があるし、義務もある。
これは、戦いである。
富と権力を祈りはじめると妨害にあう。
悪霊の攻撃を受ける。
その攻撃を振り切って、実際にそれらを獲得しはじめても、妨害は続く。
つまり、サタンは、クリスチャンに支配権を奪われたくないのである。
そのために、ディスペンセーショナリズムを作った。
ディスペンセーショナリズムを信じると、世捨て人になるので、「富と権力を得たいという気持ちすら持たなくなる」。
騙されたクリスチャンたちは、「再臨が近い。終末に備えよ」と江戸時代から言い続けている。
そろそろ気づこうではないか。
クリスチャンは、キリストにあって第2のアダムであり、この地上を支配し、神の国を拡大し、世界をエデンの園のような素晴らしい場所に変える使命が与えられている。
われわれが祈らず、活動しなければ、サタンによる支配はさらに広がる。
4.
あなたは、今の収入で満足しているだろうか。
それならば、イエスの弟子ではない。
もちろん「個人的な生活」という点で「持っているもので満足すべき」である。
衣食があれば、それで満足すべきです。(1テモテ6・8)
しかし、「世界の支配者」という点では、それでは足りない。
富を得ようとあせるあまり、罪を犯してはならない。
忠実な人は多くの祝福を得る。しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない。(箴言28・20)
これは、「富を得る」ことが人生の中心目標になって「忠実」を失う人への警告である。
われわれが目指すべきは、「忠実」による「多くの祝福」の獲得である。
聖書信仰を失って、ヒューマニズムやディスペンセーショナリズムを子供に教えているような人間が祝福を得られるはずがない。
祝福の大前提は、聖書契約への忠実である。
十戒を守ることである。
十戒をいいかげんにしている人間が、世界に出て行って同類を作っても意味がない。
われわれが支配権を拡大する目的は、世界の弟子化である。
今のサタニストが支配する世界を覆して、神の支配に置き換えることである。
エデンの園という学校においてきちんと園を耕し、守り、命名をしなければ、外の世界に乗り出すことができなかったアダムと同じように、聖書信仰や聖書契約において忠実でなければ、卒業証書を得られないので、富と権力は拡大しない。
5.
神の計画とは、われわれ契約の民が、世界を支配することである。
イルミナティが支配することではない。
それゆえ、祝福を求めず、「神の国のために」富と権力の拡大を求めないならば、第2のアダムとしての使命を果たしていることにはならない。
われわれは法的に支配者であるが、実際的にはそうではない。
実際的な支配者になるには、忠実と祈りが必要である。
今、サタニストに流れている富と権力の流れをこちらに向かうように変えるのは、われわれの猛烈な祈りである。