聖書の中心的メッセージを回復しなければならない


聖書は、全人類の運命についての書物ではない。

それは、契約の書であり、もっぱら契約の民に関する書物である。

契約の民とは、ユダヤ人だけを指すわけではない。

契約の民とは、イエス・キリストにつくすべての民であり、それは人種や民族は関係ない。

ただし、人種や民族は無視すべきだというのではなく、契約の民と非契約の民の2つのカテゴリーの下に、きちんと区別すべきサブカテゴリーである。

ローマ・カトリックやフリーメイソンなどの一位一神教では、人種や民族が敵視される。

表面的には敵視されないが、原理的に敵視される。

三位一神教では、契約の民(クリスチャン)と非契約の民(ノンクリスチャン)の違いだけではなく、それぞれの時代に、特定の地域を統治する国家や民族、人種の多様性を尊重し、やたらに融合することを禁止する。

神の世界は、多様であるだけではなく、多様でなければならない。

だから、日本という国に無原則的に大量の移民を入れて人種混合や民族混合が起きることは間違いである。

話を元に戻すと、聖書は契約の民の運命に関する書物である。

聖書は、「クリスチャンはいかに世界を支配すべきか」について書いてあるのであって、「人間一般がいかに世界を支配すべきか」について書いてあるのではない。

預言者は、イスラエルの運命について警告し、預言した。

律法は、イスラエルがどのように生活しなければならないのか、それを守ったときどのように祝福され、破ったときどのように呪われるかをテーマとしている。

聖書は、「クリスチャンこそが歴史の主人公である」と示している。

「クリスチャンがいかに勝利するか。地上をいかに征服するか」について書いてある。

だから「何も思い煩うな」という命令は、クリスチャンに向けられたものであって、ノンクリスチャンにではない。

むしろノンクリスチャンには「己の罪を悲しめ」と言う。

ノンクリスチャンには、心を平安にする処方箋を示すというよりも、むしろ自分が罪深いことを悟って契約に入れ、と命令している。

クリスチャンは、キリストとともにこの世界の王である。

キリストのニュー・ワールド・オーダーは、紀元70年にキリストが再臨されて、天の王座につかれたときに確立された。

だから、クリスチャンは「王らしく生きるべきだ」。

聖書は、クリスチャンに向けて「王、支配者らしく生きなさい」と命令している。

われわれはたしかに王なのだが、王座に座ったばかりの実績のない王である。

世界はサタンに乗っ取られている。

これからわれわれは、サタンから支配を奪い、それをキリストのそれに変えなければならない。

それは、徐々にである。

急激に革命をするわけではない。

また、武力を用いるわけでもない。

われわれの武器は「御言葉」である。

御言葉は、「それ以上高い権威が存在しない絶対権威」であり、それゆえ、「あらゆるものを切り裂く剣」である。

この武器の前に、世界のいかなる兵器も太刀打ちできない。

進化論者がいろいろ屁理屈を言ったら、われわれは「聖書には六日で創造されたと書いてある」と言え。

それで相手はバッサリ切られた。

これで勝敗はついた。

「進化論者を打ち負かすには、科学的な証拠が…」とか必要ない。

荒野の誘惑において、イエスは、サタンに対して御言葉しか示さなかった。

それによってサタンに勝利された。

『北斗の拳』という漫画のように、われわれが「世界は六日で創造された」と言ったら、進化論は「すでに死んでいる」。

しばらくは動いているが、突然ばったり倒れる。

ジェンダー・フリー論が「社会機能的男女平等」を唱えても、われわれが「聖書では、本質的に男女は平等だが、社会機能的にそうではない」(*)と言えば、その論はすでに死んでいる。

御言葉の真理が示されたら、それに逆らっている人々はその時点で「アウト」である。

だから、どんなにキリスト教界で社会的権威があり、評価の高い人々であっても、われわれが聖書から真理を解いて、それに対してその人々が逆らったならば、それで彼らは終わりである。

正統的信仰を持つ人々と議論し、彼らを追い出すことは恐ろしいことだ。

あなたの前で正統的信仰を持つ人々が聖書から真理を語ったら、2つしか選択肢はない。

1.受け入れて生き延びるか。

2.拒絶して滅びるか。

クリスチャンは、神の御言葉という真理をかざしつつ神の国を前進させる。

キリストが世界の王である以上、御言葉は絶対的権威であり、誰も反抗できない。

御言葉が示される場所において、必ず神の国が広がる。

聖書とは、「クリスチャンがどのようにして神の国を広げるか」に関する書物であり、方向性がしっかりと存在する。

残念ながら、今の教会は聖書思想の全体像を見せず、方向性を教えない。

漠然とノンクリスチャンにも適用されるような道徳の書物のように扱っている。

「契約の民による地上支配」という聖書の中心的メッセージを回復しなければならない。


(*)

それは、社長の命と社員の命が本質的に平等であり、同じ価値があるが、社会機能的に不平等であり、社長が社葬で送られるのに対して、社員はそうではないのと同じ。

 

 

2014年5月27日



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