神の選びによって悟りの程度は変わる
神は、クリスチャンの中でも、悟りに差をつけておられる。
それは、神の選びである。
だから、「ある人には○○まで示そう」、「この人には△△まで示そう」と考えておられる。
われわれは、神が設定された限界まで知ることができる。
ヴァン・ティルは、前提主義まで悟ったが、その先のセオノミー(神の法)までは悟れなかった。
ある人が「神の法についてどうですか」と聞いたが、「わかりません」と答えたという。
セオノミーについては、神は、ヴァン・ティルの仕事ではないと考えられたのであろう。
その弟子のグレッグ・バーンセンとラッシュドゥーニーがセオノミーについて説いた。
セオノミーを説かなかったグループは、哲学に走った。
ヴァン・ティルにしたがって「聖書は前提である」と考えても、具体的な事柄、たとえば、政治や経済について、御言葉から離れて考えると、次第にヒューマニズムに接近する。
ドーイウェールトのグループは、セオノミーに行かなかった。
日本のドーイウェールト学派の人々は、われわれがセオノミーを唱え始めたころに、あるクリスチャン向けの新聞の中で、「奴隷制度に結びつく」と言った。
また、私の教会の牧師は、「異端ではないが危険な教え」と言った。
もし、セオノミーが危険な教えであるならば、「神は危険な方」とレッテルを貼ることになる。
なぜならば、セオノミーとは、神の啓示だから。
旧約聖書における律法は、神の御心である。これを危険と称することは、「神様、あなたは行き過ぎです。危険です」と言っているのと同じである。
旧約聖書における律法を奴隷を奨励する教えとするならば、「神様、あなたは奴隷を奨励しておられますね。ひどいお方です」と訴えていることになる。
「神の御言葉に難癖をつける。」これが、今のキリスト教の現実である。
神の言葉は、触れることができないもの、神聖不可侵なものである。
神の言葉を少しでも変えることは、最大の永遠の呪いを受け続けるに値する罪である。
このような罪を、今のクリスチャンは犯している。
ヴァン・ティル→グレッグ・バーンセン(及びR・J・ラッシュドゥーニー)の流れは、必然の流れである。
ヴァン・ティルで止まる人は、神がそのように選ばれたのである。
グレッグ・バーンセン、R・J・ラッシュドゥーニーまで進む人は、神がそこまで悟ることを許されたのである。
ヴァン・ティルにも届かない人は、もはやクリスチャンとは呼べないので、遺棄に定められた人々である。
「聖書は人間認識の前提である」と信じることができない人々は、クリスチャンではない。
このように、神の選びによって、悟りの程度は変わる。
悟ることを願う人には悟りが与えられ、悟ることを拒む人には、すでに与えられた悟りすら取り除かれる。
2012年6月26日
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