エデンの園は、出発点であった。
そこから四本の川が流れたのは、「エデンの園の祝福が全地に及ぶこと」を象徴している。
聖書において4は、世界を象徴するからである。
世界は、四隅を持つ天幕と考えられている。
山は柱であり、おおぞらは天井である。
預言書において、天が巻物のように巻かれて消えるとか、山が揺れ動く、という表現は、文字通り解釈すべきではない。
それは、世界が次のステージに移行することを意味する。
天幕生活をしていた人々が移動するさいに、天井の幕を巻いてたたみ、四隅の柱を土台から取り外したように、神が今の世界をいったんご破算にして、次のステージに移動することを示しているのである。
旧約時代が終わることを預言者はこのたとえで示した。
天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。(黙示録6・14)
神は、反逆のイスラエルをさばき、最終的にイエスを神の子、救い主として信じる人々つまりクリスチャンに世界をゆだねられたということを、新天新地という表現で示している。
「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、――主の御告げ――あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。(イザヤ66・22)
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。(黙示録21・1)
「あなたがたの子孫」とは、新しい創造を経験した人。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5・17)
それは、ユダヤ人・非ユダヤ人を問わない「神のイスラエル」である。
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(ガラテヤ6・15−16)
霊的に生まれ変わりを経験した人こそが、新天新地の住人である。
キリストは、新しい創造の初穂である。
第2のアダムとして、新しいエデン山の中腹「新エデンの園」に置かれた。
クリスチャンは、この新しい創造の初穂に属し、新エデンの園に住んでいる。
第1のアダムがエデンの園から世界に出て行って、エデンの園を拡大する使命を与えられていたように、キリストとクリスチャンは、世界をエデンの園化するためにエデンの園の門から出ていく。
この山下りこそが、世界の改革の基本形である。
四六時中平野部にいたら、神の国の拡大はできない。
まず山に登って、神から力を受けなければならない。
エデンの園は、幕屋・神殿で象徴された。
モーセと民は、幕屋と神殿に行って礼拝した。
礼拝において神と契約的に一体化し、力と指令を受け取って世に出ていく。
新約時代において、幕屋・神殿はクリスチャンの体である。
クリスチャンの体は聖霊の宮であり、聖霊が住まわれるところ。
礼拝はそこにおいて行われる。
クリスチャンは、神の幕屋であり、いずれ動かされない神殿に代わる。
それが、携挙である。
携挙は、寿命がきて、この肉体を離れるときに起きて、そのときに復活体が与えられる。
それはもはやテントではなく、石づくりの建物である。
けっして滅びることがない永遠の体。
永遠の聖霊の宮である。
この世界の創造の目的とは、エデンの園化である。
エデンの園のように世界が祝福されること。
そのためには、いつもエデン山に登り、神を礼拝し、神から力と指令を受けなければならない。
エデンの園=幕屋=神殿=クリスチャンの体は、神の国の本部である。