聖書を前提として受け入れるべき
神がアダムに命令したのは「絶対服従」である。
それは、認識論においても同様である。
すなわち「私が述べたことをそのまま信じろ。疑うな」と。
エバは失敗した。
サタンが「神は本当にそのようなことを言われたのですか。食べても死にません」と述べた誘惑の言葉に乗った。
神の言葉に対する一点の疑いも「罪」である。
それは、今でも変わらない。
聖書66巻に対する疑いは罪である。
聖書が予定論を教えていれば、「はい。そのとおりです。救いは予定されています」と丸ごと受け入れなければならない。
人間の言葉は疑うべきである。
しかし、神の言葉は疑ってはならない。
だから、聖書を疑うすべての異端は罪であり、それを信じる人は罪人であり、けっして赦されない。
恐怖は「聖書はこう言っているが、本当かな」と疑うところから生じる。
恐怖に落ちた人は、悪霊にとって、おもちゃにされる。
聖書という錨を捨てて、漂流した船である。
悪霊どもは、漂流した船に強風を当てて揺らし、恐怖を倍増する。
自分の知恵に頼る人は、結局、独立者ではなく、サタンの奴隷である。
「疑わない」という技術を身に着けると、四六時中、平安である。
どんなことがあっても、心をかき乱されることがない。
疑い始めると、壮大な無駄が待っている。
貴重な一生の時間を「恐怖」という無駄な感情によって無益にしてしまう。
サタンは、われわれが神の国のために建設的な時間を過ごすことを嫌う。
だから、恐怖を与える。
恐怖を与えるには、疑わせること。
疑わせるには、学者や世俗の知恵を吹き込んで、聖書に対する不信を醸成すること。
この誘惑を断ち切って、聖書を前提として受け入れるべきである。
2016年6月8日
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