マルクスとサタンが中国崩壊を押し進めるだろう
以下のサイトにマルクスがサタニストであったことが中国で紹介されたとの記事がある。
https://www.facebook.com/DaRiBenHuangGuo/photos/a.307760469324221.52699.307752832658318/362116527221948/
ミレニアムでもすでに紹介している著書である。
http://www.millnm.net/qanda/marxandsatan.htm
このようにして、最終的に中国の共産主義体制は崩壊するのである。
偽りが長く力を持つことなどありえないのである。
【カール・マルクス、悪魔への道】
(共産主義者は道徳を唱えない。本当のマルクスの姿)
2010年12月19日
海外中国語週刊誌「新紀元」第200期(11月)がカールマルクスの本当の姿を紙面にて紹介いたしました。
http://www.epochtimes.jp/jp/2010/12/html/d17137.html
(2010年12月19日)
カール・マルクスほど現中国の思想・制度作りに影響を与えた人物はいない。中国が共産党国家になった1949年以降に生まれた中国人は皆、小学校入学の時に「共産主義のために命を捧げ、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想に一生涯を貫く」と宣誓し、その後、「個人の将来は共産党への忠実度にかかっている」という党との関係に動かされて人生を送る。人生が終止符を打つ時でさえも、「マルクスに会いに行く」と共産党員の死が意味づけられる。共産主義の中国では、マルクス主義は憲法によって真理とされ国教的な存在とされている。マルクスもあたかも崇拝される神のようである。
そんなマルクスはかつて、
宗教を「大衆のアヘン」とののしり、無神論者と自称していたが、
実は彼は元は敬虔なクリスチャンであり、後にサタン教に転向した。
ユダヤ人のプロテスタント牧師フォン・リチャード・ウンブランド著の『マルクスとサタン』(1986)で明らかにした。この事実が最近、海外中国語メディアで取り上げられ、それをきっかけに中国国内で話題を呼び、人々に衝撃を与えた。サタン教メンバーが作り出した共産主義はもしかして真理ではなく、理想主義のマスクを被ったサタン教の変身ではないか、と思い始めた中国人の共産主義への信仰の基盤が揺れ始めている。
中国人の信仰を揺らしたこのことについて、海外中国語週刊誌「新紀元」第200期(11月)は、「カール・マルクス、悪魔への道」と題する記事で紹介している。『マルクスとサタン』とマルクス主義者のホームページに掲載された「マルクスのカルト−サタン教から由来(The Cult of Marx - it origin in Satanism)」や「マルクスはサタン教徒なのか(Was Marx a Satanist)」などの文章に基づいて書かれたこの記事
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カール・マルクス、悪魔への道 文・文華
アメリカ人のセルジス・リース将軍はカール・マルクスの崇拝者だった。マルクスの死後、彼はロンドンへ渡り、マルクスがかつて住んでいたという家まで足を運んだ。当時マルクスの家族はすでに引っ越しており、元女中のヘレンさんだけが残っていた。ヘレンさんはマルクスの最期の様子をこう語った。
「彼は神に対して敬虔でした。最期を迎えるころは1人で部屋に閉じこもり、頭に帯を巻いて一列に並んだロウソクに向かって祈りを捧げていました」
セルジスは自分の耳を疑った。無神論のはずのカール・マルクスが誰に祈りを捧げたのだろうか。その怪しげな宗教的儀式とはいったい何だったのだろうか。
少年マルクスはクリスチャンだった
マルクスは、もともとクリスチャンであったのだ。彼が書いた有名な作品(The Union of Believers With Christ According to John 15:1−14,Showing its Basis and Essence,its Absolute Necessity, and its Effects)で、「イエスとの一体とは、緊密かつ活発な友情に身を置き、常に目の前と心の中にイエスがいること」と記した。
まだ17歳のマルクスは高校の卒業文集に、
「もしキリストへの信仰がなく、キリストの言葉に従わなければ、人類は道徳を持つこともできず、真理への追求もできないだろう」「イエスだけが我々を救うことができる」と書き残した。
弁護士だった父親のハインリヒ・マルクスは息子の持つ才能に大いに期待していた。
ロルブ・ホール(Rolv Heuer)は、著書『天才と富豪』でマルクスのことを次のように書いた。
「ハインリヒ・マルクスは、カール・マルクスに毎年700マルクもの仕送りをしていた。
当時、年収が300マルクを越える人はほとんどいなかった」。
このような貴族大学生がキリストの教義に従って修行するなどとても考えにくいものだった。
こうした贅沢な生活を送ったマルクスにとって、正教の教えは単なる束縛に過ぎず、彼は個人の完全なる開放を求め始めた。
ちょうどその頃、サタン教がヨーロッパで密かに伝えられており、享楽に溺れたマルクスは、最終的には、サタン教の組織にはいり込んでしまった。
サタン教の儀式に参加し、サタン教徒に
マルクスが18歳の頃に、大学で一度霊的な現象に出会い、それから敬虔なサタン教徒になったという。今残された資料から、彼がサタン教徒の儀式に参加したときに、サタンが何かの形で現れ、それを見たマルクスが「自分はサタンの代弁者だ」と信じるようになったのだと推測できる。
そのころに彼が書いた劇曲『オーラネム』には、サタニスト教会で行われる黒ミサの儀式が描かれていた。『オーラネム』というタイトル自体はキリストの聖なる名の逆さづりであり、黒魔術ではそのような倒置に魔力があるとされる。
『オーラネム』の「演奏者」という詩のなかで、マルクスは自分のことを次のように書いた。
地獄の気が舞い上って、やがて私の脳を充満した
私は気が狂い、心が完全に変った
この剣を見たか?
闇の大王がそれを私に売った
私のために、彼は拍子を取り、合図をする
私の死の舞もますます大胆になる
ここでも、マルクスは悪魔サタンと何かの契約を交わしたことがわかる。
この詩は特別な意味を持つ。サタン教の入信儀式の中で、成功を導く剣が入信者に売られる一方、
入信者は「死後の霊魂が悪魔サタンの元へ帰する」ために、自らの血でサタンとの契約にサインをすることになっている。
マルクスの詩もそれを表すものだった。
マルクス主義者のフランツ・メーリングが『カール・マルクス』でこのように書いている。
「ハインリヒ・マルクスはカールに残した遺産が自分のもっとも恐れることに使われるなど思ってもいなかっただろう。しかし実は、彼も息子が悪魔に転じつつあることに微かに気づいたようだ」
1837年3月2日にハインリヒが息子にこのような手紙を書いた。
「君にはいつか有名になって、有益な人生を送ることを望んでいたが、それだけではない。これらの望みが実現されても私を幸せにすることができない。あなたの心が純朴で、人間の心として鼓動し、悪魔に転化されないことしか、私を幸せにできない」
やがてカール・マルクスは大学在学中にジョアンナ・サウスコット(Joana Southcott)主宰のサタン教に入信した。1837年11月10日に彼は父親への返信に、「私は脱皮した。聖なる主が私の体を離れ、新たな主が宿った。私は真の凶暴に占有された。私はこの凶暴な魂を鎮めることができない」と書いた。
【人類の滅亡を目指すサタンの代弁者】
ここでまた劇曲『オーラネム』の台詞を引用する。
若き我が腕に力が満ち溢れる
凶暴な勢いで
君たち人類を掴んで、そして壊す
暗闇の中、底なし地獄は我々に口を開いた
あなたが落ちて、私は笑ってついて行く
そしてあなたの耳元で、「下で会おう」と囁く
聖書啓示録では底なし地獄について「悪魔そして堕落した天使に用意されたもの」と書かれているが、マルクスは全人類をこの地獄に落とそうとしていた。
オーラネムの死について、マルクスは次のように書いた。
「滅亡、滅亡。私の時間が訪れた。時計が止まり、建物も崩れる。私は永久を手に入れ、生命の叫びとともに、全人類に呪いをかける」
才能に溢れた18歳のマルクスは『オーラネム』で自分に決めた人生計画を明確なものにした。
人類・無産階級・社会主義などに捧げるのではなく、この世界を壊すこと、社会に動乱・苦痛をもたらすことで、自らの王座を築こうとしていた。
マルクスは詩人ゲーテの『ファウスト』の中の悪魔メフィストフェレスの台詞「すべての存在が壊されるべきだ」を好んでいたという。
マルクスにとって、ここの「すべて」には、無産階級、共産主義のために戦う人々も含まれるが、後のスターリンは自分の家族さえも、この「すべて」として壊した。
【社会主義はサタンの罠に過ぎない】
マルクスが演劇『オーラネム』などの作品を書いた頃は、まだ社会主義の理念を持っていなかった。それどころか、彼は社会主義に激しく反対していた。「ライン新聞」の編集長だったマルクスがこのように書いていた。「単に理論的なものに過ぎないにしても、形態としての共産主義の存在は許せないものだ。実践などはとんでもない・・・」
しかしその後、マルクスがモーゼス・ヘス(Moses Hess)に出会った。ヘスはマルクスに最も大きな影響を与え、マルクスを社会主義の方向へ導いた人物だった。
1841年にヘスがB.アウエルバッハ(B.Auerbasch)へ書いた手紙の中でマルクスについて、「若き(当時24歳)哲学者のマルクス博士が偉大で唯一なる存在。彼は間違いなく宗教や哲学に致命的な打撃を与えるだろう」と評価した。
当時のマルクスは社会主義を実現させるよりも、あくまでも宗教の滅亡を目指していた。彼はあらゆる神に対して恨みを持ち、イエスキリストの教えにも敵意を持っていた。
当時の友人だったジョージ・ユング(George Jung)が1841年に「マルクスはきっと神を天国から追い出し、告訴をも辞さないであろう」と書き残していた。
マルクスは最終的に造物主の存在を否定し、造物主が存在しなければ、人間は戒律を持たず、責任を持つ必要もなくなると主張していた。
このことはマルクスが宣言した「共産主義者は道徳を唱えない」でも表されている。
また、当時の男性は髭を生やしていたが、マルクスの髭の形とは異なっており、ましてや長髪などはみられなかった。
この外見の特徴はほかでもなく、ジョアンナ・サウスコットが主宰したサタン教信者の特徴だった。
悪魔シロと交信できると自称していたサウスコットの死後60年後の1875年ごろ、ジェームズ・ワイト(James White)がサウスコットの教義に共産主義的な意味合いを持たせるようにした。
マルクスはイデオロギーのことを公に話すことは少なかったが、彼をよく知る友人の言論からその一部分知ることができる。
マルクスと共に「第一インター(国際労働者協会)」を設立したロシアの無政府主義者ミハイル・バクーニン(Mikhail Bakunin)はこのように自分たちの信仰を語っている。
「邪悪の主のサタンは、神に反逆している。この反逆は人類に開放、つまり革命をもたらしている。社会主義者は『私たちはその間違って扱われたサタンの代弁者』だと自らを定義する。
サタンこそは永久なる反逆者であり、初めての自由たる思想を持つ救世主である。サタンこそ、人々に卑怯な無知と従順さを恥辱であると感じさせ、人々を解放した。彼は、人々の額に解放の印を付け、人々に反逆の旗を振らせ、科学知識という果実を食べさせた」
さらにバクーニンは、
「革命により、人々の心に潜む悪魔を呼び起こし、人々のもっとも卑劣な激情をかき立たせる。我々の使命は教えを伝えることではなく、破壊そのものなのだ。破壊の欲望はすなわち創造の欲望である」と書き下ろしていた。
【親友は皆サタン教徒】
マルクスの友人のP.J.ブルードン(P.J.Proudhon)は社会主義者で、サタンの崇拝者でもある。
彼はマルクスと同じような髪形をし、髭を生やしていた。また、ブルードンも同じように神を侮蔑し、サタン召喚の詩を書いていた。
ドイツの詩人ハインリヒ・ハイネもマルクスの親友の1人で、彼もまたサタンの崇拝者である。彼の詩にこう書いてあった。
「私は悪魔を呼んだら、彼が来た。驚きを抱くも、私は彼の顔を見つめた。彼は決して醜くない、というより、可愛くて魅力的な男だ」
「私には一つの願いがある。家の前に何本か美しい木があり、私を喜ばせたい神がこのような場面を見せてくれる。私の敵6、7人がこられの木で首を吊るされ死んでいる。私はあわれみの心で彼らの過ちを許す。そうだ。我々は敵の過ちを許さなければならない。ただし、それは彼らの死後でのことだ」
マルクスはそんなハイネを羨望していた。
ソ連初代文相で哲学者のルナチャルスキーは『社会主義と信仰』のなかで、「マルクスは神との関係を断ち切り、サタンを行進中の無産階級(賃金労働者階級)の前に立たせた」と記した。
【造物主と同等であると自負】
最もマルクスに寵愛された末娘のエレナ(Eleanor)はマルクスの同意のもとで、エドワード・エベリング(Edward Eveling)と結婚した。
サタンへ憧れていたエベリングは「神の悪」という演説をしたことがある。演説の中で彼はサタンを「偉大なる」存在と称え、「口うるさい」神を聖なる座から引き降ろし、その地位をサタンに譲るべきだと熱弁をふるっていた。
また、マルクスの息子のエドガー(Edgar Marx)が1854年3月21日に彼に書いた手紙のなかで、父親を「親愛なる悪魔」と呼んでいた。
この呼び方はサタン教で愛する人を呼ぶ名前として一般的だったという。
マルクスの妻が1844年8月に彼に宛てた手紙には、
「大司祭様、どうか可哀想な羊たちに平和と安らぎをお与えください」と、2年後に『共産党宣言』を起草し、すべての宗教を消滅させることを誓ったマルクスを「大司祭様」と呼んだ。
彼は何教の司祭と自称したのだろうか。
また、自ら書いた詩「ヒューマン・プライド」では、マルクスは自分の目標が世界の改善や革新ではなく、世界の破壊だと認め、それに喜びを感じていると吐露した。
軽蔑に、私は世界という顔面に
鎧(よろい)を投げつける
このデブデブとしたヤツの崩壊を見届けてやる
しかしコイツの倒壊はまだ私の激情を鎮められない
私は神のように
この世界の廃墟の中を通り抜け、凱旋する
私の言葉に強大なエネルギーを持つときは
私は感じるだろう
造物主と同等であることを
サタン教の思想を表現している詩はこのほかにもあると考えられるが、マルクス思想の信者らがそれらを公にすることを拒み続けた。
これについてアルベール・カミュ(Albert Camus)が『革命者』という本でこのように書いている。「マルクスとエンゲルスが書いた30巻の作品が出版されたことがない。これらの作品で表現されているとらえどころのない不規則な理念は、世に知られているマルクス主義の思想とかなりかけ離れている」
これに対してモスクワにあるマルクス・エンゲルス研究所の副所長M.Mtchedlov教授は、「マルクスの作品は100巻以上あるが、出版されているのはわずか13巻」と改めている。
【入信後の乱れた生活】
マルクスはほかのサタン教徒と同じように乱れた生活を送っていた。
アーノルド・キュンツリ(Arnold Kunzli)はカール・マルクスの生涯を書いた本の中で、マルクスの親族数人の奇妙な人生について記述していた。
次女ローラが社会主義者のポール・ラファルグ(Paul Lafargue)と結婚したものの、自ら3人の子供を殺し、自分も夫と一緒に命を絶った。
末娘のエレナは夫と一緒に姉と同じ道をたどろうとしたが、自分は命を絶ったものの、夫は死際で躊躇したという。
マルクスは女中のヘレンと関係を持ち、隠し子ももうけたが、後にその子供をエンゲルスに養子入りさせた。
また、マルクス・エンゲルス研究所のリャザノフ(Riazanov)所長はマルクスがアルコール依存との事実を明かした。
偉大なる革命家マルクスにはもっと卑しい過去があった。
ドイツの新聞『Reichsruf』1960年1月9日付の記事では次の事実を伝えた。
オーストリア当時の首相ラービー(Raabe)がソビエトの最高指導者ニキータ・フルシチョフに見せたマルクスの自筆手紙はフルシチョフを喜ばせなかったという。この手紙は、マルクスがかつてオーストリア警察の密告者で、革命者の情報を警察に提供することで賞金をもらっていたとの証拠を示した。
資料館で偶然発見されたこの手紙によると、マルクスがロンドンで亡命していた時期に、革命の同志を密告していた。ともにロンドン、パリ、スイスなどで亡命していた同士に関する密告は1つにつき、マルクスは25クローネの賞金を手にしていた。密告された中にはルージュ(Ruge)という革命家もいたが、彼は自分がマルクスの親友だと思い込み、2人の間で往復した情熱溢れる手紙は今も保存されている。
また、マルクスは家族を養うことなど脳裏になかった。
数カ国の言葉を自由に操れるマルクスは、生活が不自由のはずはなかったが、彼はエンゲルスからの援助で生計を立てていた。マルクス・エンゲルス研究所の資料によると、マルクスは生涯に渡り、エンゲルスから合計600万フランをもらっていた。
マルクスは家系の遺産に対する執念も深かった。
病気の辛さを耐え忍んでいる叔父に対してマルクスは、「あの犬が死んでしまえば、(財産の引継ぎの)妨げもなくなる」と書いていた。
彼は母親に対しても容赦がなかった。
1863年12月に、マルクスは母親の死について、エンゲルスにこう書いた。
「2時間前に電報が届いた。母が死んだらしい。家族が亡くなる運命で、私もいつかは死ぬだろう。多くのとき、私に必要なのは1人の老人ではなく、その財産だ。それをもらいに、トリーアに発つ」
マルクスは無産階級を「愚かなガキ、ごろつきども、ロバ(間抜け)」と表現していた。彼は結局一生涯、誰も愛さず、誰も信じることはなかった。
(翻訳編集・張浩)
2014年12月14日
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