バベルの塔は弁証法的な対立を通じて建設される
ノモンハンで、日本軍は勝っていた。
◆3.戦果と勝敗:
1)戦死傷者:
戦死 負傷 合計
日本軍 8,741名 8,664名 17,405名
ソ連軍 9,703名 15,952名 25,655名
(ソ連側損害数は「ロシアの記憶」モスクワ軍事出版杜1998より)
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2)航空機・戦車:
航空機:ソ連機1,673機撃墜爆砕(うち高射砲で180機、戦車で26機、歩兵3機撃墜)
日本側損害;未帰還機77機、大破102機、計172機
*「出動回数50回、延べ300機を越えたが、出動中の全損害は3機で敵戦闘機による撃墜は皆無であった。」(野々垣四郎飛行61戦隊付大尉、ノモンハン・ハルハ河戦争国際シンポにて)
戦車装甲車:'ソ連側800両以上、目本側29両(内修理不能13両)
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3)勝敗:
・3倍の兵力を動員した反撃態勢を整えていたにもかかわらず、突如として反撃作戦が禁止されたため、敵のハルハ河右岸占領を許してしまった。(戦争目的に照らせば負けとなる)
・しかし、ノモンハンの日本軍の強さがスターリン、ソ連軍にいかに強烈な印象を与えたかは、ソ連が対日参戦に異常な慎重さを以て臨んだ(3倍の60個師団案では出動せず4倍の80個師団を動員して初めて攻撃)のを見れぱよく分かる。
・ジューコフがミシガン大学のハケット教授や新聞記者と会談したときに「元帥の軍暦の中でどこの戦いが一番苦戦でしたか」と聞かれ即座に「ノモンハンの戦い」と答えたとのことである。(参考2.)
・勝ち戦をわざわざ負けにしてしまったのは、参謀本部、その中心は作戦課長稲田大佐である。ひたすらソ連を刺激しないことに努め、敵基地爆撃を禁止し、手足を縛った揚げ句、「ソ連の統帥の節度は敵ながら見るべきものがある」「もしソ連が戦果拡大をやったならぱ一気にハイラルまで押されていたかも知れない」などと愚かなことをいっている。実際はソ連は大打撃を受け、日本の反撃に恐怖していたのである。.
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日支事変においてもノモンハンで日本軍が大損害を受けたことで、ソ連や中国側はノモンハンで大勝利したことを宣伝して士気を高める必要があった。もし日本側が大反撃をしてソ連を追い込んでいたらどうなっていただろう。ソ連はポーランドやバルト三国から兵力を引き上げてノモンハンに投入せざるを得なくなっただろう。
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/698.html
1939年のノモンハン事件(ハルハ河戦争)の頃、日本軍内部にゾルゲと親しい軍エリート達がいた。武藤章少将、馬奈木敬信大佐、山県有光少佐、西郷従吾少佐ら親独派将校は、ゾルゲに日本の軍事情報を流していた可能性が高いが、内務省に属する特高警察は、彼らを密かにリストアップできても、軍部にまで捜査を及ぼすことができなかった。[1](P21)
[1]松崎昭一「ゾルゲと尾崎のはざま」、NHK取材班・下斗米伸夫『国際スパイ・ゾルゲの真実』角川書店 1992年
http://scr81.hatenablog.com/entry/20141126/1417010296
2019年1月14日
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