自分の過去の実績や経験を根拠に自己推薦しているうちは本物の信仰とは言えない


1.

クリスチャンの体は神殿である。


あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(1コリント6・19)

神殿は、神の御霊が住む場所であり、世界の中心である。

それゆえ、クリスチャンの体は世界の中心である。

ユーチューブのコメントで「あなたは、自分のことを預言者として吹聴しているようですね」と言われたことがあるが、もちろん、私は預言者である。

なぜか。

聖書がそう述べているから。

聖書によれば、クリスチャンは、王・祭司・預言者の三重の使命を帯びている。

なぜならば、キリストは、王・祭司・預言者の本体だからである。

旧約聖書においてイスラエル人に与えられたこの3つの使命は、キリストにおいて成就した。

新約時代において、キリストは王・祭司・預言者である。

キリストと一体である教会も王・祭司・預言者。

だから、クリスチャンも、王・祭司・預言者。

キリストの王国において、クリスチャンは王・祭司・預言者である。

キリストの王国とは、世界全体であるから、クリスチャンは、全世界を統治する王であり、全世界を神と和解させるために働く祭司、全世界に神の御心を伝える預言者である。

世界は、クリスチャンを中心に回っている。

クリスチャンが、この三重の使命をきちんと果たせば、世界はどんどん神の御心が成就し、理想の世界に近づく。

2.

サタンは、われわれを「自己卑下」させようとして様々な異端を吹き込んでいる。

「クリスチャンは弱い」「クリスチャンには奇跡を行う力はない」「クリスチャンにはこの世を統治する権限がない」「クリスチャンがいくら主張しても、世の中の人は耳を傾けない」・・・

こういう「ウソ」を吹き込んでくる。

ディスペンセーション主義は、その一つである。

ディスペンセーション主義の偽教師たちは「再臨と携挙まで何をやっても無駄だ。世界は変わらない。諦めて主のご再臨を待とう」と教える。

われわれを弱気にさせる、というのが、サタンの目標である。

われわれが王・祭司・預言者であると自覚しないように様々な騙しを行っている。

われわれが目覚めると、自分の計画が頓挫すると知っているからである。

世の人がいくら「あなたが王・祭司・預言者?笑わせないでください」と言って馬鹿にしてもひるんではならない。

誇大妄想狂と言われようが、夢想家と言われようが、強気を貫くべきである。

「現実を見なさい。クリスチャンの数は減り、キリスト教は弱体化している。この科学の時代に、聖書の寓話を信じる人なんていない」と言ってきたら、「われわれは、現実を見ながら生きるのではなく、信仰によって生きるので、放っておいてください」と言うべきである。

3.

われわれは、神に対して自己推薦をしながら生きているわけではない。

「神様、私はこんなに立派な人間です」と言いながら生きているのではない。

なぜならば、われわれの基盤は「行い」ではなく「信仰」だから。

われわれが自分の義を立てて「私のこれまでの業績を見てください。天国に行けるのも当然でしょう」と言い始めたら、神は、われわれをとんでもない惨めな状態に落とされる。

とても自分のことを聖人とは呼べなくなるような罪に落とされる。

ネブカデネザル王は、バビロンの国を見て自信に溢れていた。

十二か月の後、彼がバビロンの王の宮殿の屋上を歩いていたとき、
王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」(ダニエル4・29-30)

傲慢の絶頂に達したときに、神は破滅を宣言された。

このことばがまだ王の口にあるうちに、天から声があった。「ネブカデネザル王。あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。
あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、こうして七つの時があなたの上を過ぎ、ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」(ダニエル4・31-32)

ネブカデネザルは理性を失い、野獣のように野をさまよった。

このことばは、ただちにネブカデネザルの上に成就した。彼は人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲の羽のようになり、爪は鳥の爪のようになった。(ダニエル4・33)

神の裁きが終わると、理性が戻り、以前の状態を回復した。ネブカデネザルは本当のクリスチャンになり、自分の栄光を求めるのではなく、神を賛美した。

その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。
地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、「あなたは何をされるのか」と言う者もいない。
私が理性を取り戻したとき、私の王国の光栄のために、私の威光も輝きも私に戻って来た。私の顧問も貴人たちも私を迎えたので、私は王位を確立し、以前にもまして大いなる者となった。
今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。(ダニエル4・34-37)

われわれの土台は、神にあり、自分にはない。

自分が偉いから生きているのではなく、神の恵みと憐れみによって生きている。

われわれが義人なのではなく、キリストが義人なのである。

われわれが律法を守っているから神に受け入れられているのではなく、キリストがわれわれの代わりに律法を守ってくださったから、受け入れられる。

だから、うまく事が進んだら「神の恵みによって」と言うべきであり、失敗したら「キリストの身代わりの犠牲のゆえに赦してください」と言うべきである。

われわれが王・祭司・預言者であるのは、自分の固有の性質によるのではなく、キリストの立場に「与っている」に過ぎない。

4.

自分の過去の実績や経験を根拠に自己推薦しているうちは、本物の信仰とは言えない。

そういう人は、他人を差別し、見下す。

自分の基準を他人に適用して、裁く。

「自分がどうしようもない罪人である」と自覚するまで、神は徹底して失敗を与え給う。

ネブカデネザルのように理性すらも失うかもしれない。

「神より他に頼る者がいない」と悟るまで徹底して無力にさせられる。

予定論を否定し「自分が動かなければ、神は私を救えなかった」というような信仰では、御国に入ることはできない。

 

 

2019年2月20日



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