神や仏に「無限の寛容」という属性を与える心は、「偶像礼拝」のそれである。
人間は、偶像礼拝者なので、神仏に「無限に寛容であってほしい」と期待する。
もし自分が信じている神仏が無限に寛容ではないとなれば、それを捨てる。
聖書において、イエス・キリストにも神にも、「悔い改める意思もない人間の無法を許す」寛容さはない。
「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます」(ヘブル10:28)
「赦し」には限界がある。
その基準は「悔い改める意思」である。
神は、悔い改める意思がない人を赦免できない。
なぜならば、その人は神のライバルだから。
学校において、教師の指示に従わず、自分勝手な行動を続ける生徒がいればどうするだろうか。
退学処分にする。
「校則に従う意思がない」人を許せば、学校がカオスになり、運営ができなくなる。
人体において「悔い改める意思のない存在」は、癌細胞である。
全体との調和を無視して暴走する。
だから、キリストと契約を結んで、キリストの御体の中に入った人々(クリスチャン)は、「罪を犯したら悔い改める」意思を持たなければならない。
「罪を犯しても悔い改めるつもりはない」という人は、キリストの体における癌細胞なので、排除される。
つまり、陪餐停止処分になり、洗礼は無効化し、「いのちの書」から名前を消される。
聖書において、救いとは、このように「条件つき」である。
神の国の秩序を重んじるという条件に従わない人は追い出される。
以下のような教えは、「過失」ではなく「革命」であり、それゆえ、悪魔が吹き込むものである。
「もっと教会は寛容になって、ものみの塔、統一教会など異なる教えの人々も受け入れてあげてください」
「聖餐をノンクリスチャンにも与えてください」
「ノンクリスチャンも兄弟姉妹と呼んであげましょう。差別をすることはよくない」
「進化論を認めましょう。聖書にも誤りはあります」
「同性愛もいい人たちです。同性愛も愛の形として認めましょう」
われわれが許されている「寛容」とは、神の国を破壊しないという条件を満たしていなければならない。
以上のような言説を受け入れる寛容は、神の国を破壊するので、条件を満たしていない。
こういう寛容を勧める人がいれば除名せよ。