なぜキリスト教は本能を悪と見、理性を善と見がちなのか


<TT様>
「キリスト教が本能を悪と見がちで、理性を善と見がち」なのは、キリスト教に侵入しているグノーシス主義の影響と見ていいのでしょうか?

実は、戸塚氏が教育論の中で、キリスト教が本能を悪と見るのは原罪という考え方があるからではないか、と批判しているのですが、それはさすがに的外れです。

では、ほんとうの原因はどこにあるのかというと、そうした霊肉二元論の考え方はグノーシス的であって、グノーシスの影響を受けた写本で構成されたネストレ版を使ってきた結果ではないか、少なくともその影響が大きいのではないかという仮説を私は持っているのです。どのように考えられますか?

<tomi>
理性を重視するのは、西洋キリスト教の伝統と思われます。

ローマ・カトリックの立場は、基本的に理性崇拝で、理性を堕落の影響外とします。

これは、グノーシスの影響がギリシアを通じてヨーロッパに根強く残り、キリスト教も、カルヴァンを待つまで払しょくできなかったところではないでしょうか。

カルヴァンすらも、『綱要』において「普通法」の自律を説いているところがあります。

かたや『申命記講解』ではモーセ律法を説いたのですが。

こういうあいまいさが、ラッシュドゥーニーまで続いたのではないでしょうか。

ヴァン・ティルやドーイウェールトも、セオノミーには行き着きませんでした。

自然法思想を払しょくしたのは、ラッシュドゥーニーとグレッグ・バーンセンからと思います。

あらゆるものは、たとえ自然であっても、堕落しているから、基準にならない、だから、神の法以外に基準としてはならない、と歴史上はじめて明瞭に宣言したのはこの両者ではなかったかと思います。

 

 

2012年7月19日

 

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