聖徳太子の母親、穴穂部間人皇女は、間人=ハシヒト=波斯人=ペルシャ人。
欽明天皇の第三皇女。母は蘇我稲目の娘・小姉君。同母弟に穴穂部皇子・崇峻天皇がいる。穴太部間人王、孔部間人公王、間人穴太部王、鬼前太后とも称す。
聖徳太子の生母として知られる。
「穴穂部」の名は、石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)で養育されたことに由来すると考えられている[2]。(Wikipedia―穴穂部間人皇女)
石上穴穂宮で養育された。
この「石上」(いそのかみ)は「伊蘓の神」。漢字辞典によると、伊蘓の「伊」は「天地の仲保者」を、「蘓」は「蘇る」を意味する。
つまり、「石上」とは「イエス・キリストの神」。
太子の生誕話がキリストと似ているので、彼女はおそらくユダヤ系クリスチャン。
となれば、聖徳太子もユダヤ系クリスチャンということになる。
「石上」「間人」など、古代日本の人名や地名などには、実は、景教にまつわる情報が入っている。
空海が景教の師・恵果のもとで洗礼を受けて、2年で帰国を促された理由は、「密教の本場は日本。聖徳太子が伝統を受け継いでいるから」ということらしい。
古代日本はキリスト教国だった。
しかし、弾圧があり、聖徳太子の一族は全滅。
その迫害を逃れた蜂子皇子が東北に逃れて開いたのが出羽三山。
蜂子皇子の御姿は御顔がみにくく、口は大きく耳の根本まで裂け、鼻の高さは三寸もあり、顔の長さは一尺五寸もある異様な御姿であったと伝えられていますが、これは人々の苦悩を一身に引き受けたからだとも言われています。
http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/03/mailmag/series/season/haguro.html
この描写は、ペルシャ人(当時ユダヤ人もペルシャ人と呼ばれていた)の彫りの深い顔を誇張したものだろう。
秦の始皇帝も「蜂のような顔をしていた」と記録にある。
東洋人が見ると、西側の人間の顔は蜂の針のようにとがっていると見えたのだろう。
以前、蜂子皇子を先祖に持ち、出羽三山の麓に1400年住む一族の「阿部」という苗字の方からメールをいただいたことがある。
結婚した女性が、同じくユダヤ人が住んでいたと言われる秩父の出身で外人のような顔をしているという。
同族が結婚することが多い。
日本は、聖徳太子以降、キリスト教が地下に潜ったのではないか。
聖徳太子の側近で、京都を建設した秦河勝も赤穂に逃げたという。
もともと東のエルサレム(エル・シャローム=平安の都)として作られた京都は、敵側に乗っ取られたのか。
私は、日本は景教の国、いや、それよりも前の初代キリスト教徒の国に復帰しなければならないと考えている。
日本は、世界をキリストの支配下に置く一大霊的センターにならなければならない。
そのためにわれわれが第一歩を歩みだそう。