神道を信仰せよと言っているわけではない
神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」そのようになった。
神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
夕があり、朝があった。第三日。
神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
夕があり、朝があった。第四日。(創世記1・3-19)
神の創造は「区別する」ことによって進んだ。
「光とやみ」「大空の下の水と、大空の上の水」「地と海」「昼と夜」・・・が「区別」された。
われわれがなぜ勉強するかというと、「区別する力」を養うためである。
数学の問題を説くには、「重要な部分とそうではない部分」を区別できなければならない。
入試の成績がよい生徒とそうではない生徒の違いは、この区別ができるかどうかの違いである。
受験勉強の目的は「素早く重要部分を抜き出す技術」を学ぶことにある。
そのために過去問をたくさん解かねばならない。
自動車の学科試験に落ちる人は、過去問をやっていない。
どの受験でも、問題は毎年だいたい同じである。そんなに変わった問題は出ない。だから対策は、過去問を分析し、出題者の意図を正確に見抜く技術をマスターすることにある。
知性とは「区別する能力」である。
「私たちは、兵器産業に貢献するような技術の研究を行いません」と言った大学があったが、これは「侵略と防衛」の区別ができないか、意図的に無視している。
「兵器はどのようなものであれ悪だ」というのであれば、防衛のための兵器も悪ということになる。
この世界には、悪が存在し、侵略者が存在するのであるから、防衛のために兵器を開発する必要がある。
知性がないと、「なんでも一緒くたにする」のである。
こういう区別ができない人々の特徴は「頑固」である。
なぜならば、反論できなくても意見を変えようとしないからである。
たとえば、「兵器開発はすべて悪だというなら、防衛できなくなりますよ」と反論されても「防衛などする必要はない。やられっぱなしになるべきだ」というような愚かなことを言い出す。
家の中に暴漢が入ってきて、家族の命が危険にさらされているのに反撃しない父親は、父親としての義務を放棄している。
社会正義は、防衛せずには存在できない。
この世に悪魔がいて、神の創造世界を破壊しようとする力が働いている限り、防衛のために努力しないことは、悪の助長であり、その人自身が悪である。
それゆえ「何が正しくて、何が間違っているか」を区別する能力はきわめて重要なのである。
正邪、善悪の区別ができなければ、防衛もできないからである。
また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい」とイエスに言った。
そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ13・47-52)
「天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てる」
「天の御国」の住民は「良いものは器に入れ、悪いものは捨てる」ことができなければならない。
「神道は異教だ。だから神道のルーツはキリスト教だということは、シンクレティズム(宗教混合主義)だ」というような批判は、「区別」に失敗している。
「神道のルーツはキリスト教だ」と言っても、私は、だからといって「神道を信仰せよ」と言っているわけではない。
「ローマ・カトリックやものみの塔のルーツはキリスト教だ」と言っても、だからといって「ローマ・カトリックやものみの塔を信じなさい」と言っているわけではないのと同様である。
ルーツはルーツ。
神道は、もともとキリスト教だったのだが、その後でいろんな異教が入り込んで、混淆している。
今の神道を推薦することは、天地がひっくり返ってもできない。
そもそも徐福がキリスト教を持ち込んだときにすでに混淆が起きている可能性が高い。
なぜならば、徐福は方士であり、方士とは方術を行う人だから。
方術とは「不老不死の術や医術・易占など、方士の行う術」(コトバンク)である。
易占は、聖書において厳禁されている。
なぜ徐福のキリスト教に易占が紛れ込んでいたのか。
私は、彼がバビロン捕囚から解放された離散ユダヤ人だから、と考える。
バビロン捕囚の間に、バビロンの邪教と融合し、占星術が紛れ込んだ。
神道の中に迦波羅(カバラ)が入っているのも、同じ理由からだろう。
たとえ私が「日本はキリスト教国であった」としても、それが純粋なキリスト教だったと言っているわけではない。
ミレニアムが扱う高度な問題を理解するには、訓練された知性が必要である。
正邪善悪の区別ができないと、見当違いな批判を行うことになる。
2018年12月29日
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