公開処刑が原則である



かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、
その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、
町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです」と言いなさい。
町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。(申命記21・18-21)

1.

「人が人を裁くことなどできない」というクリスチャンが多いが、神は「人を裁くために」人を地上に置かれた。

「町の長老たち」は、裁判官であった。

2.

刑罰を下すのは、一般人である。

今日、数人の公務員が、どれが処刑用の蓋の開閉につながっているか明らかになっていない複数のボタンを一斉に押すことになっている。

なぜ一人が一つのボタンを押すようになっていないかというと、心理的な負担を与えないためであるという。

しかし、聖書では、処刑は町の人々によって行われた。

「町の人はみな、彼を石で打ちなさい。」

全員が処刑に参加した。

その被告を昔から知っている人々もいただろう。

相当な重圧である。

しかし、神は「共同体の構成員全員が処刑に参加せよ」と言われる。

このような神を現代人は「残酷だ」「愛がない」という。

神を裁く人は、その人が神であることを意味する。

その人は、己を神とする偶像礼拝者である。

神に忠実な人は、神が言われたとおりに行う。

3.

現代人は「処刑は秘密に行われるべきだ」と考えている。

しかし、聖書は「処刑は公開で行われるべきである」と教える。

なぜならば「あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために」。

既述のように、町の人々は処刑に参加した。

しかし、見物人として他の町の人々もやってきただろう。

彼らは、処刑の様子を人々に伝えたことだろう。

それによってイスラエル全体に「恐れが広が」ったことだろう。

公開処刑の目的は、「イスラエルがみな、聞いて恐れ」、その結果、「あなたがたのうちから悪」が「除き去」られることにある。

もう一度言う。

このようなことを命じる神を「残酷だ」「愛がない」という現代人は、自分を神とする偶像礼拝者である。

神に忠実な人は、神が言われたとおりに行う。

 

 

2018年7月14日



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