来るべき時代においては聖書啓示を絶対とすべきである


1.


それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」(1コリント1・19)

この世の知恵で神の言葉を批判することはできない。

これは、来るべき世界において「認識の原則」となるべきである。

神は超越者である。

それゆえ、神の知恵は人間の世界のそれを超越している。

科学の知識がたとえ創造論を否定したとしても、創造はあったとすべきである。

なぜならば、「超越者なる神がそう述べたから」。

聖書の創世記の創造に対して異議を唱える科学者の知恵を、神は滅ぼされる。

人間の言葉を否定することはできる。

だから議論は必要だし、反論をすることも可能である。

しかし、聖書において明らかに啓示されていることについて議論はできない。

聖書の言葉は「そのまま受け取るべきである」。

聖書において「神は人間を創造された」と書いてあれば「はい。神は人間を創造されました。進化論は間違いです。」と言わなければならない。

これは、「言える」ではなくて「言わなければならない」。

聖書に同性愛は罪であると記してあれば、「はい。同性愛は罪です。同性の結婚を認めることはできません。」と言わなければならない。

現代は、ヒューマニズムの時代である。

ヒューマニズムの時代において「知識に関する最終権威は人間である」。

だから人々は聖書の啓示についても「証明しろ」と要求する。

「大洪水があったか地質学的な証明が必要だ」と。

「処女降誕はありえない」と。

神を超越者として見ず、被造物と同質なものと見る。

未来において世界が弟子化されたあかつきには、「神の超越性」は、あらゆる領域において絶対的原則として認識されなければならない。

裁判官、弁護士、政治家、企業家、学者、科学者、学校教師…は、この原則を破った場合に罷免すべきである。

この点であいまいな態度を取るならば、再び世界は混とん化し、悪魔の支配が始まる。

人々は混乱と絶望と戦争と悲惨の中に叩き込まれる。

創造者なる神を超越的主権者とし、聖書を超越的な啓示とし、絶対的基準として持たない社会は、祝福を失った地獄と化す。

「科学を否定し、聖書を妄信する社会こそ地獄だ」という人がいたら「じゃあ、再びスターリンや毛沢東のような人間に支配されたいのですね」と言おう。

聖書を捨てて、人類は幸せになったか?

逆だ。

古き良きアメリカは、聖書を信じる人々がいたからこそ成立した。

今のようなポリティカル・コレクトネスによって「男女別のトイレは差別だ」と主張するアメリカが果たして幸せなのか。

よく考えていただきたい。

2.

タルムードユダヤ人が作ったユニテリアンのアメリカは、すべてを合同しようとする。

男女の区別、国境、民族、宗教、あらゆるものを「一つ」にしようとする。

細胞壁を取り去って単細胞にすることを目指すので、社会を殺している。

彼らが作ろうとしている世界統一政府は、世界の死である。

ヨーロッパやアメリカ、そして、日本に移民を大量導入することによって、文化的な特質をことごとく奪う世界は地獄である。

キリスト教は、ユニテリアン(一位一神教)ではなく、トリニテリアン(三位一神教)である。

つまり、統一性も多様性もどちらも究極であり、同等の価値を持つとする。

神は3人おられるが、契約によって一人の法人として存在される。

存在の根源である神において多様性と統一性が調和している。

だから、被造物も同じように多様性も統一性も同じ価値を持たせなければならない。

3.

神の三位である父、子、聖霊は、本質において互いに平等である。

しかし、機能的に子と聖霊は父に従う。

これは、会社において社長も平社員も命の価値は同等であるが、機能的に社長が平社員よりも偉いのと同じである。

神の社会におけるこの原理は、被造物に適用されなければならない。

教師も生徒も命の価値は同じである。

しかし、生徒は「社会的秩序を維持するために」教師に服従すべきである。

ユニテリアンが作ろうとしている世界において、この機能的区別は撤廃される。

だから、社会が混とん化する。

共産主義が支配した世界において、この区別があいまいになる。

全共闘の時代、私の高校では、授業中にヘルメットをかぶった高校生がずかずかと教室に入ってきて「これから生徒集会を開くので出席するように」と叫んでいた。

よく廊下で教頭が生徒に取り囲まれて詰問されていた。

「恩師」というような言葉が消えた。

一年生のころ、大学の門は夜間でも入れたが、学生運動後、施錠されるようになった。

階級対立を煽る共産主義運動によって学校や教師と生徒の間に不信が生まれた。

人民を解放するはずの共産主義によって、人民はかえって不自由を味わうようになった。

ユニテリアンの信仰は実質的に汎神論であり、超越者と非超越者の区別が否定され、創造者も被造物も同じカテゴリーに収められる。

「権威の喪失」は、社会の秩序維持を困難にし、結局「むきだしの力による押さえつけ」がはびこるようになる。

ソ連では、目抜き通りの100メートルおきに警官が立っていた。

ジェンダーフリーは、ユニテリアン思想に由来する。

本質的区別と社会的区別を混同した左翼教師によって子供たちは、男女の区別を悪とする教育を施されている。

「桃太郎」の話において、おじいさんが洗濯を、おばあさんが柴刈りをする。

同性愛は愛の一つの形であり、罪ではないと。

取り返しがつかなくなる前に、この狂気を止めなければならない。

4.

聖書が示す創造の秩序を教える以外に教育には残された道はない。

男も女も命の価値は同じである。

しかし、社会的に機能するために区別がなされている。

しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(1コリント11・3)

フェミニストがもっとも嫌うこの箇所を否定するならば、われわれは、かえって不幸の中に巻き込まれると覚悟すべきである。

 

 

2017年4月2日



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