神の法=聖書法こそわれわれが持つべき基準である


お茶の水大学は、性同一性障害の男性にも入学を許可すると発表した。

https://www.yomiuri.co.jp/national/20180702-OYT1T50108.html

男性と女性の差をなくする傾向は、神の御心に反している。

神は「人を男と女に創造された」と聖書にある。


しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。(マルコ10・6)

男性の遺伝子を持つ人は男性であって、たとえ心が女性的であっても男性に変わりはない。

第三の性は存在しない。

女性っぽい男性はいる。しかし、それは「男性の個性」である。性別はあくまでも男性である。

男女差を縮めるならば、当然、男性が男性と結婚することを許容するようになる。

すると、どうなるだろうか。

神の裁きにあう。

なぜならば、同性愛は最悪の罪の一つだから。

「神の御心なんてどうでもいい。人間がどう考えるかだ」というのがヒューマニズムの主張である。

日本もこのヒューマニズムの攻撃にさらされ、そして、ついに敗北した。

一箇所でも水が漏れたらダムは決壊する。

このままなら、日本は神の裁きに向かって転がり落ちるだろう。

男女関係の崩壊は、社会秩序の崩壊の序章である。

結局、聖書的キリスト教を基本に置かなければ、社会の崩壊は避けられない。

戦後教会が土台としてきた「自然法」では、「地の塩」としての役割を果たすことができないのである。

自然法は、自然を基準とするので、同性愛を禁止できない。

自然界は堕落しており、動物は子殺し、同性愛、自由恋愛を行う。

基準にはならない。

人間に文明を与え、高貴さを与えるのは、聖書の法である。

自然理性でもいい、と教えてきた戦後の教会は、セオノミーを拒絶し、われわれを迫害したことを反省すべきである。

神の法=聖書法こそが、われわれが持つべき基準である。

 

 

2018年7月4日



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