律法無効論を唱える教師を最低の人として扱うべきだ



わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。(マタイ5・17-19)

(1)
「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません」とあるので、律法は、永遠不滅なのである。

では、どうして今日動物犠牲がささげられないのだろうか。

旧約聖書の律法では、罪を犯した場合に、いけにえをささげよとある。

なのにクリスチャンは教会で動物犠牲をささげることをしない。なぜか。

それは、キリストの十字架において動物犠牲は成就したからだ。

旧約聖書の動物犠牲は、キリストを指し示す型であった。

本物が現れたら型は不要である。

小さい頃には息子におもちゃのスポーツカーを買ってあげたが、成人してからなおもおもちゃを買ってあげたらおかしいことになる。

成人したら本物のスポーツカーを買ってあげればいい。

本物のスポーツカーを買えば、おもちゃは不要である。

それと同じように、イエス・キリストという動物犠牲の本体が登場したのだから、動物犠牲は不要になったのだ。

これは、けっして「律法の廃棄や消滅」ではない。

イエス・キリストにおいて律法は守られたので廃棄されていない。

われわれは、罪を犯したときにもはや動物犠牲をささげる必要はないが、代わりに本体であるキリストの犠牲を信じ、悔い改めることである。

「キリストの犠牲のゆえに私の罪を赦してください」と祈るべきだ。

(2)
「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。」

今日、教職者は、「新約時代において律法は無効だから、守らなくてもいい」と教える。

ディスペンセーショナリズムの影響を受けたからである。

ディスペンセーショナリズムでは、今は恵みの時代であって、律法の時代ではないから、律法は無効なのである。

しかし、「一点一画でも地に落ちることはない」のであるから、無効と言ってはならない。

そのように教育する人々は、すべて天の御国で最小の者、つまり、最低の人と呼ばれる。だから、教職者にあるまじき人間として退けるべきだ。

律法無効論を唱える教師はすべて免職に値する。

「しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」

逆に律法を自分が守り、また守るように他の人に教える人は、偉大な人である。

「偉大なディスペンセーショナリズムの学者」などというものは存在しない。

律法は今日無効であるなどと教えるディスペンセーショナリズムのグループの中で偉大は人は一人もいない。

だから、われわれは、今日ディスペンセーショナリズムに牛耳られているファンダメンタリストの中で偉大な人を見つけることはできない。

彼らが誰かをほめるならば、「違います。律法無効論を唱えるので最低の人です」と言うべきだ。

 

 

2012年10月29日



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