オーバン・アヴェニュー神学は異端以外の何物でもない1
オーバン・アヴェニュー神学(フェデラル・ヴィジョン神学)がなぜ危険かというと、二契約説を取らないからだ。
二契約説はカルヴァン主義の正統的な説である。
契約には2種類ある。
業(わざ)の契約と恵みの契約。
アダムは、神と業の契約を結んだ。
これは行為義認の契約であった。
神の戒めである「善悪の知識の木から取って食べるな」という掟を守れば永遠の命と被造物の聖化という報いが与えられた。
アダムと被造物全体が栄光化され、永遠の祝福にあずかるはずだった。
しかし、失敗した。
そのために、永遠の命を失い、被造物も虚無に帰した。
神は、アダムの代わりにキリストを使わされ、アダムの罪を負って死ぬことと、アダムの代わりにすべての掟を守って永遠の命と被造物の聖化を達成された。
それゆえ、アダムの業の契約から離れて、神とキリスト契約を結んでキリストとつながり一体化すれば、誰でも永遠の命と被造物の栄光化の祝福を受けることができる。
業の契約はアダムで終了した。
その後、人間がどんなに頑張っても行為によって義と認められない。
アダムとアダムの子孫として生まれてくるすべての人間は、アダムと一体であり、契約的に一人である。
アダムが失敗したので、アダムの子孫も失敗した。
だから、キリストに乗り換えなければならない。
キリストと一体になるべきである。
キリストにつながる契約を恵みの契約という。
「業」によるのではなく、「恵み」によって祝福を受けるからだ。
堕落後のアダム以降、すべての契約は「恵みの契約」である。
モーセ契約も恵みの契約である。
オーバン・アヴェニュー神学は、一契約説を取る。
だから、アダムも恵みの契約を結んだというのだ。
これは一見すると、神の恵みを強調しており、正統的に見えるが、実際は違う。
なぜならば、キリストの役割である「第2のアダム」がぼけるからだ。
例えで言えば、アダムは、バス会社の社長から、人や貨物を乗せて目的地まで行けと命令された運転手のようなものだ。
アダムが運転するバスには、すでに多くの人と貨物が載る予定だ。
しかし、アダムは、大型二種免許を取れなかった。
しかも、免許を取るために会社から与えられた費用を無駄にしてしまい、負債を背負った。
そこで、社長は、自分の息子を立てて、彼に免許を取らせ、アダムもバスに乗せて、人々と貨物を無事に目的地まで届けさせた。
しかも、社長は、彼の労賃をアダムの借金返済に充てて、彼を自由にした。
このたとえの息子はキリストである。
キリストは、アダムの代わりに永遠の命を達成し、人々と被造物全体をその栄光の目的地に連れて行く役割を果たされた。
しかもアダムの失敗を肩代わりして地獄の刑罰を受けられた。
オーバン・アヴェニュー神学によると、アダムは最初から運転手ではなかったということになる。
最初からバスの乗客として乗り込む予定であったと。
これは、キリストの御業の意味である「アダムの代役」がぼけてしまい、贖罪と身代わりの律法成就の意味もあいまいになる。
全体として、福音の意味がゆがみ、神の恩恵がかすんでしまう。
オーバン・アヴェニュー神学またはフェデラル・ヴィジョンは異端以外の何物でもない。
2014年4月15日
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