聖書信仰しか解決はない


柱がないから、精神が崩れやすい。

なぜ、現代人は、柱がないのか。

聖典を失ったから。

聖書という不動の基準を失ってしまった。

そして、その代わりに「人間が編み出した哲学」が基準になった。

なぜならば、万物の尺度は人間ということにカントが決め、それを人類が選択したから。

「高等批評に影響されて聖書の神を信仰できない」

というクリスチャンからメールをもらった。

聖書を出発点としていないからだ。

「聖書を疑わない」という地点からスタートしないからだ。

そのため、不安にいつもさいなまされる。

そういうクリスチャンは、損をしている。

100m競争で、スタート地点をわざわざ10メートル後ろに設定している。

聖書信仰のクリスチャンは、スタート地点に並んでいるのに、聖書を疑っているクリスチャンは、自分でハンディをつけている。

聖書を疑わないクリスチャンは、早く目的地について、栄誉と賞金を得る。

聖書を疑うクリスチャンは、遅くついて何ももらえない。

なぜ自分で10m後ろからスタートするのか。

プライドだ。

「科学的に物事を探求するのが正しい」という誤解があるが、この誤解は、プライドに起因する。

自分が「最終判断者」でいたいのだ。

神よりも賢くなりたいのだ。

謙遜なクリスチャンは、神に対して無条件に服従し、「おっしゃることをすべて信じます」というが、プライドがあるクリスチャンは「たとえあなたがそう言っても私には自分の考えがあります」という。

これは、しもべの態度ではない。

神を主としていない。

だから、そのクリスチャンはクリスチャンではない。

キリスト族に属していない。

だから、永遠の刑罰に会う。

イエスは疑う人々に何と言ったか。

「なぜ疑うのか。聖書に〇〇と書いてあるではないか」と。

叱責である。

「わかる。わかる」とは言われなかった。

疑う人を断罪しておられる。

私は、もしそれが自分の信仰を弱めるならば、学問を捨てろと言いたい。

そんなものは学問ではない。

神の言葉を超越するような学問は学問ではない。

すっぱりと切れ。

自分が嫌いなもの、虫とか、動物とかに対して、どういう反応をするか。

ちょっとでも考えたくないだろう。

蜘蛛が苦手な人が、蜘蛛について瞑想するか。

触ってみたいと思うか。

一瞬でも考えの中から消したいと思うだろう。

触れらすぐに手を引くだろう。

それと同じように、神の言葉と矛盾するものを忌避すべきだ。

思いめぐらすことすらするな。

徹底的に忌み嫌え。

それが「汚れたものに触れるな」という神の御言葉の意味である。

「汚れ」とは「神の主権を損ない、脅かすもの」である。

ほとんどの人々は、自分の好き嫌いで選択した思想や哲学、宗教を信じて迷走している。

イエスの記述には、ミトラ教の影響がみられるとか。

自分なりの宗教観を作って、迷路にはまっている。

思考が一貫せず、ぐちゃぐちゃになっている。

柱がないから、ふにゃふにゃだ。

ふにゃふにゃで、ぐちゃぐちゃの人生をあえて選び取っている。

だから、ノイローゼになったり、いろんな精神病にかかる。

そういう混乱の中で膨大な無駄な労力を使って、人生を無駄にしている。

神の国のために働かない。

聖書信仰に立って、聖書を疑わないと決めるならば、思考が整理され、首尾一貫した思想を身に着けることができる。

そして、確信をもって生きることができる。

ぐらつかない。

迷わない。

おどおどしない。

不合理なことをゴリ押しをして、周りに迷惑をかけない。

聖書を信じて柱を作るべきだ。

政治家になって、売国をして、苦労の末に中国に侵略を許して、そんなことをして何になるのか。

多くの人々を不幸にして、その努力はいったい何か。

なんにもならない。

ただ、自分のかけがえのない人生、一度限りの人生を無駄にした。

取り返しのつかないことをした。

そういう無益な生き方をしている人がほとんどではないか。

狂気だ。

この世界はサタンの惑わしの中で狂っている。

聖書信仰しか解決はない。

聖書を疑わないと心に決めて、しっかりと歩んでいただきたい。

 

 

2015年4月7日



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