三位の声を別々に聞く?



HPにおける多くのご教示、いつも興味深く拝読しております。最近三位一体説において、「神の声聞く」という観点から、父、子、御霊の声を別々に聞こう、聞くべきだ、と主張する方々がおられますが、富井氏は、このような神の御声の聞き方をどのように思われますか?確かに、三位の神様ですから、御声も別々に聞こうと思えば、聞かせてくださるかもしれませんが、聖書的には、父→子→御霊→クリスチャンたち、という秩序において、神の御声が聞こえると信じ理解しておりますが、富井氏はどのようにご理解されていますか?ご教示のほどお願いいたします。

聖書では、キリストは、三位一体の中の秩序を尊重しておられると思います。

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。(マタイ6・9-11)

祈りの対象は「天にいます私たちの父」です。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。(ヨハネ14・13-14)

「イエス・キリストの名によって」祈れと言われています。

イエス・キリストは祈りにおける仲介者であると。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。(ヨハネ15・16、16・23-24, 26)

繰り返し「わたしの名によって」と強調されています。

祈りは「イエス・キリストを通じて」行なえと命令されています。

御霊は、とりなしを行われます。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ8・26)

ここで「とりなし」にあたるuperentugcaneiは、uper(のために)+entugcanei(苦情を言う)=「代理として苦情を言う」という意味で、

御霊は、私たちの代理として苦情を言ってくださる方という意味になります。

entugcaneiの語根のtugcaneiは「(振り上げた斧が誰かに)当たる、ヒットする、命中する」というような意味の言葉で、御霊は、われわれの代わりに父なる神に直訴してくださるような印象を与えます。

このように、聖書では、祈りのシステムが、

「父なる神に、御子を通じて、御霊が一緒になってわれわれの代理として直訴してくださる」

となっています。

そのため、私たちは、素直にこのように考える必要があると思います。

聖書の中に、御子や御霊に祈るという箇所はなかったように思います。

神の三位の中で別々の役割があり、組織体として機能していることが啓示されている以上、私たちは、その組織的機能を尊重する必要があると思います。

三位は契約的に一人なのですから、別々に行動するのではなく、同じ意図を持ち、同じ計画で人間に接しておられると思います。

それゆえ、聖書において特別の啓示がない限り、三位の声を別々に聞くことには意味がないと思います。

 

 

2015年7月28日



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