本当に神を神としてあがめること
「「聖書法綱要 8.権力と権威 (3)」これです!これですよ、私がそれまでの教会や信仰に、1から考え直してもらいたいと思ったものは。チョーヨンギの逆を言ってますね。
なんとか、こういう考えを全ての人に知ってほしい・・やはり私ががんばらないと・・だって奇跡は、そういうものですものね。一人ひとりが心から望んで1日ではできないことをやり遂げないといけないんです。1滴が、何年も落ちて石がへこむ感じでしょう。」
「逆です。チョーヨンギに限らず、奇跡やしるしが神の現れであるように教わっていました、私は、教会の先輩からも、無料で貸し出される、伝道者や牧師の講演などです。また、そういった書籍も毎日毎日読み漁りました。
大変に熱心でした、自分で言うのもおかしいですが。けれど、それを何年もやって、ある面、誰よりも大胆に信仰によって進みました。しかし、その信仰に矛盾を感じ始め、教会に一切の興味を失くしました。
私は人が祈りの中倒れたり泣き出したり幻を見たりするKの教会をでて、Pの牧師のところに通うようになりました。とてもよい人だったからです。娘のように大事にしてくれました。日曜学校もやらせてもらいました。
あんまり詳しく話せば長くなるので焦ってくるんですが
で、Pの牧師は誰よりもいい人でした。いつも他人のために働き、なぐさめ、祈り、助ける人でした。日曜学校は好きでした。私は教えることが好きな性格です。でも、教える?私が?信仰の方向を失って、それまでの信仰が壊れかけているのに、
聞いたことのある説教を子供向けに言い換えるだけでした。でももう疲れ果て、教会に通うことすらイヤになりかけていました。
でも、人に裏切られることがあって、もう一度一人で聖書を読むことにしました。それでKIのサイトとか、TBとか、KN聖書教会とかいろいろネット上だけの寄り道をしながら、いくらか信仰を取り戻しつつ、自分なりの方向を見つけましたが
それが合っているか間違っているか聞く人もいない、誰の本を読んで得たものでもない、ただ主と、聖書と、祈りのなかでだんだん形になり始めたオリジナルなキリスト教かと思っていました。「もし勘違いだったら地獄だな私は」と思いましたが
ミレニアムにであって、間違っていないと確認しました。私が、ぼんやりそうじゃないかなと思っていたものが、そこに、言葉で書かれていました。私が一番、先生の話で好きなのは陰謀論とか中韓の話じゃありません。聖書のことを説明しているものです。
とても長くなりましたが、しるしや奇跡を求めるのは悪魔的、その通りなのです!クリスチャンをおかしくします、熱心なほど。私が体験しました。聖書法綱要は、正しいと思います。絶対に正しい。
どこにも正しいものは見出せなかった。でもあった。
きっと先生にもわからないでしょう、私がどうしてそんなところ強調するか。しかしこれが洗脳を解くものです。正しい言葉を聞くことは、メスです、オペです。叫んだり泣いたりしても癒しはやってこない。自分の何が間違っているか言われること、聖書をちゃんとわかることが
癒しです。それがみことばだと思う。だからK時代に必死に祈ったはずのリバイバルは、ある日嵐のように神の側から突然来るものじゃないと、私は思う。」
2015年4月17日
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