クリスチャンは「永遠の報い」のために功利主義者になるべきである



自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。(ルカ9・24、17・33)

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。(ヨハネ12・25)

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10・39)

永遠の命を受ける条件は、「わたしのために」「この世でそのいのちを憎む」ことである。

逆を言えば、イエスのためにこの世での命を憎まない人は、死後地獄に行く。

日本は、80歳にもなった企業家たちが、自分の儲けのために国益すらも犠牲にするような国になった。

あと10年も生きられないことが分かっているのであれば、永遠の命を得るための努力をすべき。

親は、自分の子供を正義によってしつけることをやめ、わがままに育て、その子供の未来と自分の未来を自ら失っている。

牧師やクリスチャンたちは、聖書に立って妥協なくはっきりと訓戒するミニストリに匿名メールを送り、その活動家個人を誹謗し、ネット上で中傷する。

これらの人々に共通するのは、「地獄の否定」である。

「地獄に行く」ということを恐れていないから、目先の利益に振り回されるのである。

近視眼なのである。

私が神の国のために働くのは、功利主義に基づく。

私は、自分の利益を求めて、地上で福音を伝え、神の働き人を増やし、悪魔の支配を破壊し、悪魔に従う人々を呪っている。

私にとって利益とは「地上のもの」ではない。永遠に続く相続財産を増やすためにすべての活動をしている。

イエスはそれを奨励している。

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6・1-6)

「人からの報いを受ける」ならば、「父からの報いを受けられない」。

つまり、意識を「父からの報い」に集中せよ、と。

人に見せるために善行をすると、その善行のうち「人から受けた分」は永遠の報いから差し引かれる。

だから人に見られないように「祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい」。

ビリー・グラハムは、ユダヤ人からの報いを得るために、聖書の教えを曲げて、「イエスを信じなくても御国に入る人がいる」と述べている。

ビリー・グラハムは、ユダヤ人から受けた報いの分だけ、天で受けられる報いから差し引かれている。

いや偽預言者、偽伝道者になったので、死後は地獄行きである。

どうして彼はこんな近視眼になったのか。

ビリー・グラハムだけではなく、ほぼすべての人々が近視眼になり、天での報いに期待しなくなった。

私から見れば「間抜け」である。

せっかく人生を捧げる決心をして、教会の牧師をして何万人のスーパーチャーチを作っても、人から報いを受けるためにやった分はごっそりもっていかれる。

聖書の教えを曲げた牧師は、自らの命をも失う。

牧会生活50年?でも、聖書に不忠実でした?聖書よりも進化論を信じていました?聖書よりもバルトが優れていると思いました?聖書の文言に厳密にこだわることをせず、ディスペンセーション主義を唱えていました?

じゃあ、その50年は無駄。

全部無駄。

神が「あなたは私の啓示に対してどう対応したか?」と裁きの座で尋ねられる。

また、「あなたは自分の地上での栄光や富のために働き、永遠の報いを受けるためには働かなかったのか?」と尋ねられる。

「永遠の報いなどどうでもいいと思っていました。」と答えたら、「おまえには報いはない」と言われる。

この世界は、神の支配の場であり、契約によって支配されている。

神との契約の中で、神に時間と軍資金を与えられ、それをどのように利用し、神のために働いたかチェックされている。

このような文脈を無視して、目の前の利益に飛びついたら、その活動期間が終わったときに、まともな報告書を提出できなくなる。

だから、間抜けなのだ。

そんじょそこらの間抜けではなく、「究極の間抜け」である。

地獄に行ったら終わりじゃないか!!!

御国で報いを受けられなかったら、意味ないじゃないか!!!

一度しか与えられない人生を無駄に使ったのだから。

取り返しのつかないことをしたことになるのだから。

私は、最大功利を得るために、可能な限り聖書的であろうとしている。

できるだけ善行を隠し、人々から栄光を受けないようにしている。

旧約の人々の中には、優れた復活を得るために釈放されることを望まず、拷問を受けた人もいた。

…またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。(ヘブル11・35)

賢い人生を送るための秘訣は、「永遠の報酬」から目を離さないことである。

地上でうまい汁を吸おうとするから、焦点がぼける。

サタンは、焦点そらしの天才である。

そのために、進化論やら無神論を編み出した。

「地上だけだ」と思わせている。

「死ねばすべてが終わり」と信じさせている。

ほとんどの人がこの騙しの中にいて、人生を無益化している。

1兆円の資産を残しても、永遠の報いのために活動しなかったら、死後無一文になる。

イルミナティのために働いたら、永遠の火炎の中で苦しみ続ける。

クリスチャンは、「永遠の報い」のために功利主義者になるべきである。

信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。(ヘブル11・24-26)

 

 

2016年1月24日



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