トマス・アキナスは「偉大な」神学者だった?2



トマス・アクィナスは、哲学は神学の探求を助けるべきであるという立場から、アリストテレス哲学をキリスト教神学と折衷して、スコラ哲学の体系を完成した。

トマスは信仰と理性の衝突を避ける近代的な合理的思想の枠組みを作って、自然科学が発展する基礎を築いた。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/18621/20160118/kagaku-no-honshitsu-25.htm

「トマス・アキナスは「偉大な」神学者だった?」で見たように、トマスは、けっして神学者ではなく、「ギリシア思想家」でしかなかった。

彼が作りだした体系は、「ギリシア思想キリスト派」でしかなく、それは「神学の」体系ではなかった。

彼の神とは、創造神ではなく、全知神でもない。

聖書の神とは異なる神観を土台として作られた体系がどうして悪魔的ではないだろうか。

トマス・アキナスを好意的に紹介することは悪魔に手を貸すことである。

その「信仰と理性の衝突を避ける近代的な合理的思想の枠組み」は、悪魔側が作り出した「キリスト教を崩壊させるための」巧妙な罠である。

もともと聖書啓示から離れた神を信じる人間が述べる「信仰」とは「聖書的信仰」ではなく、悪魔の信仰である。

聖書における理性の活動は、「再生していない御霊を持たない人間が聖書から独立して行える」ようなものではない。

科学は、イエス・キリストへの信仰を通じて「再生した(生まれ変わった)」人間だけが真に行えるものである。

きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。(テトス1・15)

彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています(エペ4・18)

「不信仰な人々」の「知性」は「汚れて」いる。

しかも、それは、「真理の霊」である聖霊の助けを必要としている。

私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。(1ヨハネ4・6)

また、聖書啓示なしでは成立しない。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4・12)

トマス・アキナスが築き上げた体系では、科学を行うには再生する必要はない。

不信仰なままでも行える。

聖霊の助けなしでも行える。

聖書啓示は不要である。

イエズス会のウィーリング・ジェズイット大学教授エドワード・W・ユーンキンス教授は、トマス・アキナスの神学について次のように述べた。

人間は自律的な存在なので、自由意志を通じて自然法を守らねばならない。
自然法は、自立した理性の産物である。
人間の法は、自然法から導き出される…実定法である。
人間の法の道徳的な有効性を決定するのは、自然法と人間の法の間の相関関係である。
神の法、つまり恵みの法は、神が旧約聖書と新約聖書、モーセ法、十戒、教会教義を通じて人間に啓示された永遠の法の一部である。
神の法は、自然理性が発見したものではなく、むしろ、賜物である。
啓示は、理性に追加するが、それを覆さない。
神の法は、自然法を補完し、人間が誤った解釈を行った場合にそれを修正するものである。
神の法は必要である。というのも、自然法では人間をその超越的な目的に導くことができないからである。
http://www.quebecoislibre.org/06/060122-5.htm

「啓示は、理性に追加するが、それを覆さない。」

結局、トマス・アキナスにとって、啓示は「おまけ」なのである。

「はじめに自然ありき」なのである。

神の創造は、自然に追加されたものである。

だから、聖書において神が要求する「再生」「聖霊」「聖書」は不要である。

「人間は、堕落していない。生まれたままの知性は汚れていない。聖霊がなくても、人間の霊だけで事足りる。啓示は、単なる理性の支援者でしかない。」ということなのである。

以上で、「トマス・アキナスの神学体系の実体はヒューマニズムである」とお分かりだろうか。

トマス・アキナスは、エデンの園においてエバを誘惑したサタンの言葉を繰り返している。

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記3・1)

 

 

2016年1月26日



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