カルヴァン主義に対する誤解を憂慮する



さらにはカルヴァン主義。

宗教改革の結果生まれてきたこの怪物は、もうニヒリズムの塊だった。その「神への奉仕としての職業」というストイックな姿勢は世俗的な楽しさの価値を否定し、「予定説」は救いの価値と生の価値を否定した。

予定説は宗教改革(142ぺージ)でも見たが、「人類の救済は、''最後の審判''で 誰が救われ、誰が救われないかまで、神により予め定められている」という考え方だ。

つまり「助かる、助からない」に至るまで、事前に神さまが全部決めちやっているということだ。

もし「自分は絶対救われたい」と思ってる人が、生きてる間にポイントを稼ごうと思って信仰を深めたり善行を積んだりしてもムダ。この予定は変えられない。しかも誰が救われることになっているかは、誰にもわからない。神さまの予定帳を見ることもできないから。

これでは我々は、救いに希望を見出すこともできない。

でもカルヴァンは、それでもなおかつ「勤勉に働け!」と叫ぶ。なぜなら勤勉に働くことで、実際どうかはわからなくても「これだけ頑張ったんだから、俺はきっと救われる側に違いない」との確信だけは深めることができるから。これが予定説だ。

(蔭山克秀『マンガみたいにすらすら読める哲学入門』(270〜271ページ))

キリスト教は内部に入らないとわからない。

外部から見るとこういう解釈になるのだろうが、残念ながら、間違っている。

そもそも、この著者が依拠しているマックス・ウェーバーの学説が間違っているのだからどうしようもない。

もし「自分は絶対救われたい」と思ってる人が、生きてる間にポイントを稼ごうと思って信仰を深めたり善行を積んだりしてもムダ。この予定は変えられない。しかも誰が救われることになっているかは、誰にもわからない。神さまの予定帳を見ることもできないから。

カルヴァン主義では、救いに予定されていない人は「絶対に救われたい」とすら思わない。

なぜならば、人間は全的に堕落し、霊的に死んでいるから。

アダムが堕落したときに、聖霊はアダムから去った。

そのため、人間は霊的に死んだ。

聖霊がないのだから、神の心がわからなくなった。

われわれクリスチャンは、イエスを信じたときに聖霊が与えられる。

そして、その聖霊によって、御心を知る。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(1コリント2・14)

「御霊のことは御霊によってわきまえる」、つまり、霊的なことは、聖霊によってはじめて理解できる。

生まれながらの人間には聖霊がいないのであるから、クリスチャンになる前の人は霊的な事柄について「完全な盲目」である。

クリスチャンになると聖霊がくだり、体の中に住んでくださる。そして、内側から真理を悟らせてくださる。

御霊が内側にない間は、自分が死んでいること、救いが必要であることすら理解できない。

では、どうやって救いを叫び求めることができるのだろうか。

神が一方的に御霊を下して、理解させてくださるしかない。

つまり、救いを求めた時点ですでに選ばれているのである。

これをある人は次のたとえで説明した。

ノンクリスチャンは、マリアナ海溝の水深1万メートルの海底に沈んだ溺死者である。

心臓はサメに食われてしまっている。

助けを叫び求めることすらできない。

神はその人を救うために、まず心臓を元通りにし、体に命を与え、意識を元通りに戻して海面にまで浮上させられる。

そして、自分が溺死しそうなことに気づかせられる。

「助けて!」と叫ばせて、そこで神が手を差し伸べられ、救われる。

本当に救われた人は、この体験を必ずする。

だから「絶対に救われたい」と思っている人はすでに予定されているのである。

でもカルヴァンは、それでもなおかつ「勤勉に働け!」と叫ぶ。なぜなら勤勉に働くことで、実際どうかはわからなくても「これだけ頑張ったんだから、俺はきっと救われる側に違いない」との確信だけは深めることができるから。これが予定説だ。

カルヴァン主義において、勤勉とは、神の国建設の取り組みとしてあるのであって、救いの確証を得るためではない。

なぜならば、聖書には次のように記されているからである。

聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペ1・14)

神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
(2コリント1・22、5・5)

「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証」として与えられている。

つまり、御霊がわれわれのうちに住んでおられるならば、それは、われわれが救われていることの証拠であり、永遠の昔に予定されていたことの印である。

「予定されているかどうかはわからないので、勤勉に働く」というマックス・ウェーバーの説には、まったく論拠がない。

カルヴァンは、注解書の中でこのように述べている。

この隠喩は、商取引に由来する。すなわち、頭金を差し出してそれが受け入れられれば、全体が確認されたのである。心変わりが起きる余地はない。
http://biblehub.com/commentaries/calvin/ephesians/1.htm

つまり、頭金を提供してそれが受け入れられれば、残金の支払いの確約として受け取られ、商品が手渡される。

それと同じように、聖霊が与えられているのであれば、永遠の命は確実に与えられたと考えるべきであると。

カルヴァンは「予定されているかどうかはわからない」とは述べていないのである。

聖霊が与えられているならば、それは、永遠の命が「確実に」与えられているとの証拠なのだと言う。

今の学会では、マックス・ウェーバーの誤謬がはびこっている。

こういう間違った知識が普及することを残念に思う。

 

 

2017年7月9日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net