ポスト・ミレと天照大神


ポスト・ミレの歴史観を採用すると、学校教育で教えられた歴史観とは異なった歴史が見えてくる。

ポスト・ミレを信じるということは、紀元70年に再臨があったと信じるということである。

紀元70年の再臨を信じるということは、紀元70年までの間に「大宣教命令」が成就したということを信じることである。

大宣教命令が成就したということは、紀元1世紀の時代に、世界に福音が届いたということである。

世界に福音が届いたということは、日本にも届いたということである。

日本に届いたということは、日本の歴史的文物の中のその痕跡が残っているかもしれないということである。

はたしてそのような痕跡はあるだろうか。

ある。

それが、天岩戸伝説である。

天照大神が岩戸に「隠れた」。「隠れる」=「逝去する」であるから、天照大神が死亡した。

しかし、隠れたところから出てきた。「出てくる」=「復活する」。

天照大神はどのような形で亡くなったか。

天照大神を映す鏡が榊にかけられた。

「鏡」=「本人」=「天照大神」だから、天照大神自身が榊にかけられた。

「榊」=「神の木」=「ご神木」

「ご神木にかけられる」=「呪われる」

つまり、天照大神は、呪われた。

これは、十字架と復活のストーリーである。

「天照大神は、木の上で呪われて死んだが復活した。」

日本は、日の丸(天照大神)を国旗とする国である。

つまり、日本は、イエス・キリストの国である。

ポスト・ミレを採用すると、当然のことながら紀元1世紀における全世界伝道が成就したと信じるようになる。

紀元1世紀における全世界伝道が成就したのであれば、日本にもその痕跡が残っているはずだということになる。

日本にきちんと十字架と復活の話が残っていた!!!

これのどこが異端的なのでしょうか?

「天照大神はイエス・キリストではない」という人は、以上の推論を否定している。

天照大神については、どのような説明が可能なのでしょうか。

 

 

2015年5月18日



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