「でも御言葉を信じます」と言えるか


エデンの園における命令は理不尽であった。

「目にうるわしく、食べるによさそうな実」を「食べるな」という。

「そんなむちゃな!」と思われるかもしれない。

犬のしつけで鼻の上や、目の前の皿の中にドッグフードを入れて「おあずけ」という場面を見る。

「それを禁止したらかわいそう」というような試練をくぐってはじめて忠実さは試される。

「醜く、まずそうな実」を「食べるな」といっても忠実さの試験にはならない。

本当の試練とは、「それでも、私は神を信じる」と言えるかどうかを試すものである。

疑うのが当然のことを通じて、信仰は試される。

進化論が登場し、「いかにも本当そうな話」なので、クリスチャンも飛びついた。

創世記の創造記事を捨てた。

誘惑に負けた結果、教会は世界で崩壊した。

よくよく考えれば、進化などあり得ないことはわかる。

クリスチャンは試練において踏ん張らなかった。

簡単に神の言葉を疑った。

信仰がガタガタにされ、キリスト教国が破壊されてもなおも進化論を信じている。

敵がばら撒いた誘惑だと認めない。

「もっともな話」には注意しなければならない。

御言葉にどれくらいしがみつくことができるのか。

簡単に裏切って非聖書的な考えを持つと、精神をやられる。

「信仰の大盾」を捨てたので、サタンは自由に我々の体の中に火矢を入れてくる。

内面は火でぼうぼうに燃える。

「ああ、現実はそうだけど、でも、御言葉ではこう教えているよね」と考えられるか。

「神様、常識的に考えてこの場合はAが正しいように見えますが、御言葉ではAは間違いですよね。だから、御言葉を信じてBを選びます」と言えるか。

「周りがどうであれ、私は御言葉のほうを選択します!」と言えるかどうか。

これが試験である。

試験に合格しないと、上の段階に行けない。いつまでも、初級クラスである。

 

 

2016年11月11日



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