Q.ゼカリヤ書では、再臨のときにオリーブ山が2つに分かれるとありますが、紀元70年に実際にそんなことがあったのでしょうか。
A.
見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。
主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。
山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。(ゼカリヤ14・1-6)
預言書の解釈は、文字通り行ってはなりません。
使徒が、ペンテコステの聖霊降臨の際にその解釈の模範を示してくれています。
今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
(使徒2・15-21)
「主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる」
ペテロは、これが、紀元1世紀に起こったと述べたのです。
太陽がやみになり、月が血に変わったことは歴史的にありません。
ですから、私たちは預言書に記されている物理的現象がそのまま起こると期待できません。
プレ・ミレの立場に立ついのちのことば社の注解書では、紀元前8世紀に記されたミカ書の1章は、捕囚前のユダとイスラエルに対する審判の預言であるとあります(新聖書注解旧約第4巻、いのちのことば社、562ページ)。
「見よ。主は御住まいを出、降りてきて、地の高い所を踏まれる。」(1・3)
これは文字通り実現したでしょうか。
いいえ。
なぜならば、まだキリストは受肉前だからです。
「降りてきて、地の高い所を踏まれ」たというのは、象徴的表現と解釈しなければなりません。
エゼキエル書において、終末において、神殿の敷居の下から東のほうに流れ出た水は、大きな、渡ることができないほどの川となり、「アラバに下り、海に入る」ので、「エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所になる」(エゼキエル47・8-10)と記されています。
「アラバ」とは、死海から紅海に至る砂漠地帯で、「エン・ゲディ」は死海の西側半ばにあり、「エン・エグライム」は紅海の北端の港です。
死海は、海面下400メートルのところにあり、エン・ゲディは死海から60メートル程上のところにありますので、エン・ゲディからエン・エグライムまで川ができるには、川の水は340m以上の落差のある勾配を上らねばならない、ということになります。
この神殿の細部の描写の非現実性はこの神殿そのものが象徴であるということを示しています。
黙示録を含め、預言書を正しく解釈するには、預言書独特の表現方法をマスターするしかありません。
紀元70年において、エルサレム神殿が崩壊したことは、もはや石でできた神殿の礼拝の時代ではなく、キリストとクリスチャンの体が神殿となり、世界中クリスチャンがいるところどこでも神殿があり、聖所があるという時代が到来したことを意味します。
ゼカリヤ14・1-6は、紀元70年に、以下が起こることを示しています。
1.イスラエルに対する審判が行われ、イエスを拒否した人々は虐殺されること。
2.イエスご自身がイエスを信じる真の契約の民のために諸国と戦われること。
3.イエスを信じる人々は、その混乱の中で天からの助けにより、災厄から逃れ、救われること。
これは、実際に起きたことです。