聖書信仰ではないをクリスチャンとして受け入れることはできない
仲間を2人失った。
一人は死刑廃止論を、もう一人は反予定論を捨てない。
ミレニアムは、この2つの議論において絶対に妥協できない。
1.死刑制度は神が定めた神の法に含まれており、聖書全体のどの部分においても死刑制度が廃止されたと記されていない。
旧約聖書では、ノアの洪水の後に、「いのちにはいのち。」の原則が確立された。
律法の無数の個所において、「故意の」殺人者を処刑せよ、と記されている。
新約聖書では、パウロは「為政者は無駄に剣を帯びていない」と述べた。
剣は明らかに処刑を象徴する。
この点においてわれわれはHPにおいて見解を明確にしてきた。
2.予定論は聖書に啓示された真理である。
神は、救いに予定された人と、滅びに予定された人がいると明確に述べている。
これについては、何度も何度もここで論証してきた。
それゆえ、われわれは、この2つの重要教理において逸脱した人々を絶対的に「救われた人々の群れ」に加えることを拒否する。
クリスチャンは祭司であり、救いと滅びを分ける御国の門の鍵を所有している。
悔い改めて、聖書信仰に立ち返る人を受け入れ、立ち返らない人を受け入れない。
われわれの最高基準は聖書のみである。
聖書をそのようなものとして受け入れない人とはいっさいの交わりを拒否する。
私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。(1コリント5・11)
2016年7月6日
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