予定論を否定する人にとってキリストの犠牲は無意味である


1.

現代におけるクリスチャンの試金石の一つは、予定論である。

予定論を信じることができれば、本物。

信じることができなければ、偽物。

聖書は「徹底した神中心主義」を教えている。

「神は、救われる人と滅びる人を天地が創造される前に分けられた」と信じられる人は本物のクリスチャン。

信じられない人は偽物のクリスチャン。

「神を救いの道具」としか考えていない「キリスト教」は、予定論を「トンデモ」扱いする。

それは、人間教であって、キリスト教ではない。

2.

「なぜ日本にはキリスト教が根付かないのか」という質問は、愚問である。

答えは一つしかない。

「神が予定された人が少ないから」。

問題は「キリスト教は日本人になじみにくい」ということにあるのではない。

「日本人が神を受け入れる」のではなく「神が日本人を受け入れる」のである。

主客転倒している。

「日本人にとってキリスト教はどうなのか」が問題ではなく「神にとって日本人はどうなのか」が問題である。

スウェーデンがキリスト教国になるのに一千年かかった。

神の国が拡大するには時間がかかる。

3.

物事の土台は神なのである。

人間ではない。

神がどのように決定されたのかが問題。

事がうまくいくか、どうかも、神の決定による。

ある芸能人が「売れる」かどうかは、神の決定による。

いくら才能があっても時代がそれに伴っていなければ売れない。

ゴッホは、生涯の間に一枚も絵が売れなかった。

早すぎたのである。

人間を測る尺度を「成功」に置くのは、神中心主義のクリスチャンがやるべきことではない。

神中心主義のクリスチャンは結果を主に委ねて、自分の仕事をただ黙々とこなす。

世の中がそれを受けれればよし。受け入れなくても気にしない。

裁くのは神だけ。

売れるか売れないか。成功するかしないか。

こんなことで一喜一憂するのは、人間教の信者である証拠。

4.

自分が犯した罪についてくよくよするのは、人間教のクリスチャン。

神中心主義のクリスチャンは、「人生の土台をキリストに置いている」のでくよくよしない。

その人は「私の行いがよいから神に受け入れられるのでも、行いが悪いから神に受け入れられないのでもない」と知っている。

「私が神に受け入れられているのは、不動のキリストの御業による」と考える。

「私が正しいからではなく、キリストが正しいから、神は私を受け入れてくださっている」と知っている。

だから失敗しても「私を見ずに、キリストを見てください」と祈る。

自分の側で留意すべきは「常に、歩むべき道に戻って前進すること」である。

「どこを歩いても問題ではない。神の道から外れて歩もう」という人には「懲らしめ」が来る。

なぜならば、神の御心は、クリスチャンが「神に似ること」であるから。


「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。(レビ記19・2)

それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。(1ペテロ1・16)

「私の代わりにキリストが律法を守ってくださったので、私が何を行おうと関係ない」と言ってはならない。

「私の代わりにキリストが律法を守ってくださった」と言えるのは、神の道を前進しようとする者だけである。

「私が何を行おうと関係ない」という者は、そもそも神の道を歩もうとしていない。

交通規則は「道路を合法的に利用しよう」とする人のためにある。

「道路は、自分のためにある。逆走したっていいし、他の車にぶつかってもいい。俺の好き勝手をやるつもりだ」というような「秩序破壊者」のためには存在しない。

同じように「キリストの功徳という回復の方法」は「神を主として礼拝し、神の国を建設しようとする人々」のために存在するのであって「神を主として拝む必要はない。神の国を建設するつもりもない」というような偶像礼拝者のためには用意されていない。

だから異端を頑固に信じ続けるような人は「キリストのゆえに赦してください」と祈ることはできない。

予定論という聖書に明確に啓示されている教えを否定する人には、キリストの犠牲は無意味である。

 

 

2019年2月16日



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