「感動的な話で決心に導く」
「大きなクルセードに大衆が集まるのを見せることによってクリスチャンになりやすくなる」
「サクラが講壇の前に進み出ると、決心がしやすい」
このようなリバイバル運動の手法の神学的な根拠は、「救いを受け入れるのは、神様の導き半分、人間の力が半分だ」という半ペラギウス主義である。
アルミニウス主義は、半ペラギウス主義である。
ファンダメンタリズム(福音派)のほとんどはアルミニウス主義である。
しかし、聖書では「救いを受け入れるのは、ひたすらに神の選びによる」と教えられている。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9・16)
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペ1・5)
だからといって、福音を受け入れる障害となっている誤解を取り除かなくてもいい、とか、愛情をもって福音を説く必要はない、などというつもりはない。
一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、(ピリピ1・16)
反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。(2テモテ2・25)
われわれの側で、相手に躓きの石を置いてはならない。
わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。」(ルカ11・52)
しかし、「日本人にクリスチャンが少ないのは、日本人に受け入れやすいアプローチがないからだ。日本人に合わせて伝え方を変えるべきだ」という類いの「コンテクスチャライゼーション」の過度の適用は間違いである。
中には聖書の翻訳まで変えてしまう人もいる。
たとえば、「心の貧しい者は幸いである」を「むさぼらない者は幸いである」と訳した聖書もある。
聖書の御言葉は一言一句変えてはならないし、聖書のメッセージも一言一句変えてはならない。
「終末の危機意識をあおって、人を集め、救いを受け入れさせる」などの手法も間違い。
現代が終末の時代だと示す箇所は聖書に一つもない。
こういう人間心理を利用したメッセージは、教会にとって有害である。
心理操作によって聖霊による回心は起きない。
聖霊は、風のようなものであり、思いのままに吹く。
聖霊によって回心し、生まれ変わる人も、人間の予測を超えている。
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。(ヨハネ3・8)
経験上、「この人はクリスチャンになりそうだ」というような人は、ならないことが多い。
むしろ、クリスチャンにならなそうな人がなる。
神は人間の予測を裏切られる。
なぜならば、神に主権があるから。
人間が神を振り回すのではなく、神が人間を振り回される。
自分の人生設計を徹底して乱され、思わぬ方向に導かれ、思わぬ人と出会い、思わぬ出来事に遭遇する。
私の友人のK氏は、自分で計画したことはことごとく失敗する。
しかし、自分の計画外のことで思わぬ成功をする。
仕事でうまく行きそうになると、土壇場でぽしゃる。
実現可能性のない計画を立てて、失敗する。
しかし、思わぬところで神に用いられる。
救われたときも、たまたま教会にご老人を送迎する際に出席した礼拝で御言葉を聞いて突然の回心をした。
その日が来る前に、姑と嫁の確執の板挟みになって「真理とはなんですか!」と叫んでいた。
礼拝の途中でピリピ書の言葉を耳にして、突然聖霊が下った。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ2・5-8)
この御言葉が雷のように自分を打った。
「そうか!イエスが真理だったのか!」と心の中で叫んだ。
涙が滂沱と流れ、それ以上声を発することができなくなった。
聖霊が下ったのを見た牧師が講壇から降りてきて、声をかけ「御名を唱えなさい」と言うと、際限なく御名が内側から出てきて止められなくなった。
このように、御霊の働きは、予測不能である。
予測不能だからこそ、神は人間を超えた主権者であるとわかる。
人間が自分の頭で論理的に考えて出した結論など、御霊の働きがあれば、吹き飛んでしまう。
すべては、神の主権によって動いている。