教会をダメにした心理学的アプローチ


ビリー・グラハム大会は、心理学を多用する集会である。

まず、球場を借り切って圧倒的な人々を集めることで視覚的インパクトを与える。

信仰の決心を募る際には、感情が高まるような音楽を流す。

ノンクリスチャンを集会に誘うためのビデオでは、このような誘い方が推薦されていた。

「こんどこういう集会が東京ドームであります。人工芝に触れることができますよ」と。

なぜこのような手法が用いられるかというと、クリスチャンになることは感情の問題だと考えているからである。

しかし、クリスチャンになるかならないかは、感情が高ぶったからとか、感動したからではない。

選びである。

神が選ばれた人は救われるし、選ばれていない人は救われない。

人間がどうこうできる問題ではない。

救われてから大きな問題が起きてつまづいて、教会を去り、ノンクリスチャンに戻ったまま死んだ人は、最初から救われていなかったのである。

救われた人は、どんな困難があっても乗り越えて成長する。

たとえ人に躓いても、それでやめたりしない。

人に躓く人は、人につながっていたのである。

キリストにつながっていたのではない。

だから、牧師が何を言おうと、その牧師が聖書的なことを言っているならば、本当のクリスチャンはそれを受け入れる。

パウロは、「愛は…真理を喜ぶ」と述べた。

本当のクリスチャンは、どんなに耳が痛くても、真理を喜び、受け入れる。

プレ・ミレなどの偽りを信じ続ける人は、自分の考えが聖書よりも上回っていいと考えているので、自分という偶像を崇拝している。

福音派の伝道集会などでは、感動物語などを多用するが、こういうもので信仰の決心を募ると、中身がノンクリスチャンのままクリスチャンになる人が増える。

こういう人々は、自分の期待していたものが教会にないとわかると去っていく。

こういう人が去ることは、教会にとって自然のことである。そういう人が残るほうが異常である。

教会が聖書に忠実であれば、感情を基準に入ったような人々は去っていくだろう。

たとえば、予定論を教えると、キリスト教をヒューマニズムと誤解した人々は躓いて去っていくだろう。

「ご自身が悪を裁く正義の方であることを証するために創造された悪人もいる」と教えると、「そんな神なら信じません」と去っていくだろう。

こういう人々が去っていくことによって教会は聖められ、さらに強くなる。

しかし、人数を基準に成長度を評価する今の教会成長学の影響を受けると、教会から人がいなくなることを避けようとする。

そのためにいろんな娯楽を用意する。

ボディービルの施設を作った教会もある。

たしかに教会への敷居を低くし、接触のチャンスを増やすためというなら「ある程度」わかる。

そうではなく、本当の意味で救われる気のない人々をつなぎ止めるために作ったのであれば愚かである。

ビリー・グラハムのような伝道方法によって、多くの教会が救われていない人々の集団になってしまった。

本物のクリスチャンが居づらくなって出て行った。

福音派の主流は、半ペラギウス主義である。

「私が信じてあげたから、神は救うことができた」みたいな教えである。

人間は全的には堕落していないので、救いを選択する力が残っているとする。

しかし、聖書は、人間は全的に堕落しており、霊的には完全な死人であり、救われたいとも思わないと教えている。

半ペラギウス主義者は、人間を、海上で溺れて助けを求めている人と見る。

しかし、聖書は、人間を、深海1万メートルに沈んで、鮫に心臓を食べられてしまった死人と見る。

助けを求めることすらできない。救われたいとの思いもない。

アダムの子孫は、みなこのような者として生まれてくる。

このような死人が救われるには、まず神が救おうとする人を選び、その人に心臓を与え、命を戻し、海上にまで連れていかれる。

そして、自分が溺れて死にそうであると気づかせる。

救いとは、徹頭徹尾神の業である。


「人の子よ。エルサレムにその忌みきらうべきわざをよく知らせて、言え。神である主はエルサレムについてこう仰せられる。あなたの起こりと、あなたの生まれはカナン人の地である。あなたの父はエモリ人、あなたの母はヘテ人であった。
あなたの生まれは、あなたが生まれた日に、へその緒を切る者もなく、水で洗ってきよめる者もなく、塩でこする者もなく、布で包んでくれる者もいなかった。
だれもあなたを惜しまず、これらの事の一つでもあなたにしてやって、あなたにあわれみをかけようともしなかった。あなたの生まれた日に、あなたはきらわれて、野原に捨てられた。
わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ』と言った。
わたしはあなたを野原の新芽のように育て上げた。(エゼキエル16・2-7)

イスラエルは神によって拾われて「生きよ」と言われて生きる者となった。

イスラエルが自分から神を求めたのではない。

神がイスラエルを選んで、救いを与えられた。

だから、すべてが恵みなのである。

その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。(ローマ9・11-13)

「生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに」「兄は弟に仕える」と神は言われた。

つまり、人間の側で救いを求めたからではなく、人間が生れる前にすでに運命は決定されているということである。

感情や気持ちと救いとは無関係である。

だからといって、われわれが人々に対して、無作法をしたり、人を躓かせるようなことをしてよいというわけではない。

われわれの側では、人を歓迎すべきである。

教会にいる人々をできるだけ愛を持って接するべきである。

教会を去ろうとする人がいれば、引き止めるべきである。

われわれの側では自分の務めを全うすべきである。

しかし、選ばれていない人は、どんなに愛情をかけても去っていく。

こちらが聖書的でないという問題があって去っていくことは、こちらに問題がある。

しかし、こちらが聖書に忠実にメッセージを伝えているにもかかわらず去るならば、それは、その人が選ばれていないか、もしくは、一時的にサタンに騙されて脇道に逸れたかである。

逸れたまま、信仰を失ったまま亡くなったら、その人は選ばれていなかったということである。

救われてもいない「クリスチャン」が教会活動の主役を務めると、聖書研究、教理教育などが妨害される。

そのため理論武装していないクリスチャンが大量に増え、長期的に見ると、教会は滅びに向かう。

このような傾向を教会成長学が後押ししている。

今では牧師すら「勉強すると頭でっかちのクリスチャンになるからだめだ」というような反知的である。

まんまと悪魔の罠にはまったのである。

 

 

2013年12月3日



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