実を結ぶ枝には刈り込みが行われる


わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。(ヨハネ15・2)

神の目から見て、人間は、大きく分けて2種類いる。

(1)実を結ばないもの

(2)実を結ぶもの

(1)

キリストは木であり、その木から枝が出ている。

枝の中でも実を結ぶ枝と、実を結ばない枝とがある。

実を結ばない枝は、父なる神がそれを取り除かれる。

つまり、キリストの御国建設に「まったく貢献しない」人間は、切り捨てられる。

切り捨てられた枝は、どうなるだろうか。

枯れる。

水分や養分が行かないから。

キリストという木につながっている限り、水分や養分は届くが、切り捨てられたら枯れて、薪にされる。

つまり、地獄で燃やされるということ。

クリスチャンと称しつつ、神の国建設に「まったく貢献しない」人は、「枯れ木志願者」である。

ディスペンセーション主義者は、クリスチャンと自称するが「まもなく携挙があるので、地上を神の国に変える必要はない」と公言しているので、枯れ木になることを志願する人である。

新しくキリストを信じて教会に加わった人に間違った教えを伝えて、その人をも新しい枯れ木志願者にするので、枯れ枝を作る一種の病気のようなものである。

フルプレテリストも「すでに神の国は完成した」と伝え、伝道や弟子化を結果的に妨害するので、神の国にとって病気である。

フェデラル・ヴィジョンとローマ・カトリックは「人は信仰だけではなく、行いがなければ救われない」と説き、キリストを唯一の救い主とせず、人間王国建設を推進するので、枯れ木志願者である。

アルミニウス主義者は「予定論は間違いだ。人間の願望と能力がなければ神も救うことはできない」と説き、神の絶対主権・全能性を否定し、人間王国建設に道を開くので、病気である。

神の国建設に役立たず、むしろそれを妨害するこれらの教えは、切り捨てられる。

(2)

神の国建設に貢献する人は「実を結ぶ枝」であり、それゆえ命がある。

キリストという木から水分と養分をもらえるので、たとえ弱ることはあっても枯れることがない。

この枝は神の国にとって有望な存在である。

だから、父なる神は実を多く結べるように「刈り込み」をされる。

自然に存在する枝には、実のならない子枝が出ている。

木からの水分や養分はそこにも流れる。

これらは無駄なので、刈り込みが必要である。

無駄な枝をはらうと、実のなる枝のほうに水分や養分が行って、さらに大きな実がたくさんなる。

神の国に貢献する人の場合、父なる神は「無駄なエネルギーを使っている部分」を切り捨てられる。

本物のクリスチャンが「神の国に役立たない教えや活動にいつまでも拘泥する」ことはあり得ない。

必ず試練がやってくる。

試練の中で、その「腐れ縁」と別れることができる。

本物のクリスチャンは、神の国に役立つ教えを聞いたら、その教えに集中し、そうではない教えに割く時間や労力を削る。

パウロはこの訓練を受け、最後には「すべてのことを福音のためにしている」と告白した。

私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。(1コリント9・23)

訓練されたクリスチャンは、あらゆることを神の国建設のためにするようになる。

そのため、この生涯において成した業績は増え続けるのである。

ミレニアムのホームページを読んでから、なおも「終末は近い」などと言っている人は、無駄な子枝を切り落とされていない人である。

本当に実を結ぶために召された人であれば、いずれ間違いを認め、地上を神の国に変えるために専念するだろう。

真理を知った後で、なおもくだらないことにおカネや時間を使って人生を浪費する人は、切り落とされる枝であり、地獄に予定された人である。

本当に救いに予定された人は、今後試練にあってその不毛の生活を止めるように導かれるだろう。

 

 

2019年6月2日



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