クリスチャンの自由について2


食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人の場合は、悪いのです。
肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。(ローマ14・20-21)

すでに述べたように、クリスチャンは、何を食べても自由である。人が作った規則に縛られることもない。

しかし、例外がある。

それは「人につまずきを与える」場合である。

自分が自由を行使することによって、他の人がそれによってつまずいてしまう場合は、悪になる。

つまずきを与える人は、死よりもひどい刑罰を受ける。

しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。(マタイ18・6)

ここで、「つまずき」を意味するギリシャ語skandalizoは、「躓かせる、罪を犯させる、憤慨させる、ショックを与える、怒らせる」という意味である。

http://biblehub.com/greek/4624.htm

人を罪に誘う行為は、たとえそれ自体が罪ではなくても、悪であり、非難に値する。

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。(1コリント10・23)

クリスチャンは、聖書において明確に罪と定められていないことを行う自由があるが、「有益ではない」ことや「自らや他人の徳を高めることにならない」ことは、制限されるべきである。

たとえば、他のクリスチャンが罪と感じていることを平然と行うことがあってはならない。

次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。

そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。

しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。

知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。(1コリント8・1, 4, 7, 10)

われわれの自由は「良心が弱い」兄弟のために制限されるべきである。

ある人が「偶像の神にささげた肉を食べることは罪ではないか」と感じているならば、その人が確信もないのに「力を得て・・・偶像の神にささげた肉を食べる」ようなことにならないように注意すべきである。

誰かが自分のやっていることに疑問を感じているならば、その人の良心のためにそれを止めるべきである。

 

 

2018年3月27日



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