物部氏とキリスト教


物部氏の祖先は徐福である。

徐福は、始皇帝と同じ民族(嬴族)であり、漢人ではない。

この嬴族はいったい何者なのか。

実は、ペルシャと関係があるようだ。


秦国は中国において最も西に位置した。西域に接し、その先にはインドやオリエントが広がっていた。実は、 そこに秦帝国とそっくり同じ支配体制をもった帝国がかつてあった。「アケメネス朝ペルシア」である。

紀元前558年、メディアから独立したアケメネス朝ペルシアはまたたくまにメソポタミア地方を席巻。紀元前525年にはエジプトを征服して、オリエントの統一を果たし、最終的にその影響力は北インドにまで及んだ。

ダリウス1世は帝国全土を127の州、すなわち「サトラップ」に分け、そこに太守、軍司令官、監視官を置いた。それぞれのサトラップ間には幹線道路を整備し、各地に駅伝を設けた。さらに貨幣制度を統一し、中央集権的な支配体制を確立した。

驚くことに、それはまさに秦始皇帝が行った統治形態とそっくりである。帝国を分割して統治する郡県制は、サ卜ラップ制そのものであるといっても過言ではない。両者の類似性は、はたして偶然なのだろうか。これに関して、アーサー・コットレルの著作『秦始皇帝』の邦訳を行った日比野丈夫氏は「監訳者のあとがき」でこう記している。

「秦の歴史でもっとも不思議なのは、中国史上初めての天下統一にさいして行われた多くのことがらが、前後の時代と殆と関係なく、実にユニークだという点であろう。とくに興味をひくのは、都を中心として国内すみずみにまで通ずる馳道(皇帝道路)を建設したことや、始皇帝の全国巡遊に当り、要所に詔勅文を刻した摩崖碑を作り、みずからの功業を誇示したことである。これらは戦国以前はもちろん、漢代にも全くなく、秦代独特のものであった。もしそうだとすれば、その起源を西方世界に求めた方がよいのかも知れない。前6〜5世紀、アケメネス朝のダリウス大王は古代ペルシア帝国の統一者で、王の道の道路や、領土内の要地に詔勅文を刻した摩崖碑を作ったことは有名だ」(『秦始皇帝』アーサー・コットレル著/河出書房社)

実際、アケメネス朝ペルシャと秦帝国の政治形態が酷似することは、かねてから歴史学者によって指摘されてきた。三上次男氏もこう述べている。

「斉の瓦のモティーフにある生命の木のアイディアというものがペルシアから中国に入ったものだとすれば、紀元前四世紀くらいに西から来たものでしょう。あの頃は非常に東西交流が盛んだった頃ですからね。

紀元前三世紀後期の秦の始皇帝の支配方式というものは、ぺルシアのアケメネス王朝の支配のやり方と実によく似ておりますね。しかし、支配方法の影響関係を証明する史料はないのです。しかし(アケメネス朝ペルシアの王)ダレイオスがやったと同じようなことを、秦が全体を統一した時に、やっている。

(周)戦国時代に宝石なんかも、中央アジアや西アジアのものがたくさん中国から出ておるし、それから、ガラスの作り方も、西アジアから、戦国時代の中国に入っておりますし、何か紀元前四、五世紀は、そういう形での交流は盛んだったのでじゃないでしょうか」(「ユネスコ新聞」昭和36・1・5〜25)

(飛鳥昭雄・三神たける著『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎』学研、243〜246ページ)


アケメネス朝ペルシャは、紀元前330年、ダレイオス3世が逃走中にバクトリアのサトラップのベッソスに殺害され滅亡した。

ペルシャの滅亡を逃れて東に向かった人々の中にユダヤ人がいた可能性がある。

なぜならば、紀元前6世紀、ペルシャには捕囚ユダヤ人がおり、解放後も当地に住み着いていた可能性が高いからである。

始皇帝陵の兵馬俑からは、副葬された労務者の遺骨が多数発見されたが、その遺骨からDNAを採取したところ、ペルシャ人やクルド人など、西アジア民族の特徴が認められたという。(同上、250ページ)

ペルシャでそうであったように、秦においてもユダヤ人は「契約的祝福のゆえに」宰相にまで上りつめる人物がいたのではないか。

始皇帝の本当の父親である呂不偉がユダヤ人「レビ」ではないかと考えられる。

聖書において「レビ」の表記はLVYであり、これは「ロヴィ」とも発音される可能性がある。

もちろん、レビは、イスラエルにおける祭祀を司る人々。

ちなみに、唐にあった景教寺院「大秦寺」(638年)のもとの名は「波斯寺」。波斯とは、ペルシャのこと。

これで、秦=ペルシャ=ユダヤ=キリスト教のつながりが見えてきた。

物部氏の祖先・徐福がユダヤ人クリスチャンであった可能性も見えてきた。

 

 

2016年9月30日





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