1.
「世の中の流れを見て決める」という方法は、クリスチャンのそれではない。
それは、ノンクリスチャンの生き方である。
クリスチャンは「約束を信じて」行動する。
なぜならば、クリスチャンにとって神の言葉は絶対だからだ。
イエスが「わたしは悪魔のわざを破壊するために来た」と言われたのであれば、クリスチャンは悪魔側につかない。
どんなに状況が悪魔側に有利であっても、そちらにはつかない。
中国人や韓国人とやりとりして気づくのは「強い方につく」という性質があるということである。
2009年頃、彼らに勢いがあったときには、「将来、アジアは中華圏になる」と信じていた。
彼らに与した愚かな経営者は、さかんに中国に進出した。
今どうだろうか。
引き上げようにも引き上げられない。
中国政府に、技術も設備も全部置いていけと言われる。
稼いだ金を日本に送金できない。
日本企業の撤退を支援する「引き上げ屋」の商売が儲かっているという。
聖書を信じるクリスチャンは、中国で儲けようなどという馬鹿な選択はしない。
「不義や不正の繁栄は一時的だ」と知っているからである。
目の前においしいごちそうを出されて食いつくのは馬鹿である。
サタンは常に獲物を狙って罠をかけるのだから。
木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。(マタイ12・33)
政治犯の腎臓をとって商売にする政府。
こんな政府がまともであるわけがない。
国内でウイグルやチベットの人々を虐待し、数百万人も虐殺するような政府がまともなわけがない。
こういう「実」を見れば、「木」そのものが悪いとわかる。
そして、悪い者の運命は常に「破滅」である。
悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。(詩篇1・4-6)
悪者は「もみがら」のように軽いので、「風が吹き飛ばす」。
いったん状況が不利になると、一気に萎える。
「主は、正しい者の道を知っておられる」ので、主に従うクリスチャンを神は常に見ておられ、必要に応じて助けてくださる。
クリスチャンには、絶望などない。
目の前に超えることができないような壁が立ち塞がっていても、よくよく調べると小さな穴が見つかる。
神がその小さな穴まで導いてくださるので、乗り越えられる。
しかし、神に逆らい、自分の力に頼る悪人は、神の守りがないので、己の行いのツケをもろに身にかぶる。
それゆえ、「悪者の道は滅びうせる」。
2.
よく日本の選手や役者などが試合の勝利や公演の成功の後に「支えてくださったスタッフのみなさんに感謝します」という。
たしかに、栄光を「私が優れているからだ」とか「努力したからだ」と独り占めするのは、間違っている。
周囲のサポートがなければ成功はできない。
人々に感謝すべきだと思う。
ただし、もしその人が「人間がいなければやっていけない」と考えているならば、間違いである。
「私が生活するには会社がどうしても必要だ。退職したらどうやって食っていけばいいのか」と悩んでいるならば、「人を恐れる」という罠にはまっている。
学生時代、私は組織や友人に依存していた。
信仰が成立していたのは、教会があったからだ。
教会の兄弟姉妹に精神的に支えられていた。
会社からソ連に派遣されたときに、そのような絆は断ち切られた。
周りはノンクリスチャンだけ。しかも、常に盗聴や尾行をされる日々。
教会に行っても、スパイとして疑われるので外国人と接触したがらない。
牧師が「一緒に写真を撮りましょう」といって私の写真を撮ったが、KGBへの報告のためだ。
仕事への自信もなく、精神が崩壊する寸前まで追い詰められた。
そのとき、神は一人の先輩を私に送ってくださり助かった。
「帰国したい」とグループのリーダーに伝えると「僕もつらいんだよ。いっしょに頑張ろう」と言ってくれた。
本当にギリギリのところで救われた。
この経験から「神は私を破滅にまでおとしめることはない」と学んだ。
私にとって、ソ連は荒野であった。
しかし、滞在の最後は非常に祝福された。
唯一買春をしない私は、グループの中で仲間はずれにされ、情報が入ってこなかった。
あの業界の独特な雰囲気になれなかったので、馬鹿にもされた。
しかし、ことあるごとに私を小馬鹿にした人は最後に逆に孤独にさいなまれていた。
私は、神の守りにより、あの試練の1年を乗り切った。
3.
福音派を出たのは、福音派のクリスチャンたちを嫌ったからではない。
セオノミーやポスト・ミレこそが真理だと悟ったからである。
教会の中でこの教えを唱えると、群れを混乱させるとわかったので、出たのである。
それ以降、一時期を除いて、「いずれこちらが主流派になる」との確信のもと、孤立を選び、集団に加わろうとしなかった。
4.
私にとって、社会の大多数の人々が何を考え、何を評価するか、はどうでもいいことである。
「何が真理か」
それだけが重要である。
そして、それだけを追求すれば、生活に必要なものは与えられるという体験を積み重ねてきた。
イエスは、公生涯の始めに、食べるものも飲むものもない荒野で過ごされた。
窮乏の中でサタンがささやいた。
「神のためにこんなに苦しむなんてばからしい。私に跪けば、全世界の富を与えましょう」と。
多くの人が、ポイントを外して滅びに向かって進んでいる。
「富と栄光」を得るためなら、不道徳なことでも何でもすると言って。
最後は滅びである。
本当の富と栄光は、イエスとともに十字架につかない限り与えられない。