人は自分がやったことの報いを必ず受ける3


神は、献身者となる人に、若い時に小さな「悲劇」を味わせることがある。

それは、本当の働きをしたときに大きなミスをしないためだ。

若い時に「神の恐ろしさ」を体験すると、本当に神の活動をする年齢になったときに神を舐めない。

だいたい本格的に活動している牧師や教職者で、「とんでもない」ことをやっている人は、若い時にそういう悲劇を体験していない。

神への恐れがないから、他の牧師が懸命に努力して建てた会堂を、その牧師を罷免して乗っ取るようなことができる。

われわれは「よく神を恐れずにできるなあ」と思う。

なぜこんな無法ができるかというと、若い時から順調に来すぎたからだろう。エリートでとんとん拍子で組織の階段を上り詰めたからだろう。

私は二回同じような体験をした。

嘘によって教会裁判にかけられた。

裁判とは、神を呼び出すことである。

だから、神を呼び出して偽りに基づいて無実の人に裁きを下せば、どれだけ恐ろしい裁きが来るか、だいたい想像がつくはずだ。

しかし、神の恐ろしさを体験していない人はそういう無法ができる。

伝道活動を妨害して平気な顔をしているのは、若いときに神から恐怖体験を与えられていないからだろう。

私は神の御言葉のために働いている人のことについて妨害活動は一切しない。

その人がどんなにひどいことをしていてもやらない。

なぜならば、そういうひどいことをした刑罰は神から直接下るから。

そして、そういうひどいことを自分が糾弾すると、自分にひどいことが起きるから。

だいたい教職者のあら捜しをすれば、自分も同じことをさせられるのである。

そうやって神は報いを与えられる。

ダビデは、絶対にサウルに手をかけなかった。

「神に油注がれた人に手をかけることはできない」と。


彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用をたすためにその中に入った。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。
ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。
こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。
彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」
ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。(1サムエル24・3-7)

神が「油注がれた」つまり「直々に任命された」人に対する攻撃は、神に対する攻撃である。

もしその人が罪を犯したら、神が直接裁かれる。

戦後、マルクス思想によって毒された世代が、子供を生んで、その子供が権威の恐ろしさを知らずにいろんな無法をやっている。

神は歴史を通じてこういう無法者を裁いてこられた。

私は、彼らとは絶対に付きあわない。巻き込まれることを恐れる。

 

 

2013年3月4日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net