トマス・アキナスの再評価の危険性


全的堕落について理解していない人が多すぎる。というか、ほとんどすべてと言っていい。

人間は、あらゆる部分が病気になる可能性があるように、あらゆる部分が堕落の影響を受けており、健全な部分は一つもない。

ノンクリスチャンの場合は、生まれ変わっていないため、神と敵対すらしている。

クリスチャンの場合、神との和解は終了している。

しかし、和解したとしても、生まれながらの性質は残っており、緩慢な進歩によって徐々に本来あるべき人間像に近づいていく。

クリスチャンには聖霊が与えられていて、内側から御言葉を悟り、正しい道を示されるが、ノンクリスチャンは、聖霊が与えられていないので、内的な促しや矯正などはない。

しかも、聖書への信仰がないため、自分勝手な考えで突き進む。

クリスチャンには、聖書の導きがあるので、正しい道に帰ることができる。

このような重大な欠陥を持つノンクリスチャンの理性に自律の道を与えたのが、ローマ・カトリック神学の祖トマス・アキナスである。

このトマス・アキナスを肯定する動きがでている。

きわめて由々しき問題である。

トマス・アキナスの開いたローマ・カトリック教とは、人間理性の堕落を前提としない間違った教えである。

信仰と理性の棲み分けを唱えた。

科学はノンクリスチャンの理性でもやっていけるとした。

信仰が必要なのは、霊的なこと、神に関すること、宗教的なことに限られる。

ローマ・カトリックはギリシア思想の影響を強く受けており、自然を神格化する。

この世界にはまず自然があったとする。

神の創造は、この自然の中で行われた「追加」でしかない。

神は創造世界について権威かもしれないが、自然秩序の権威ではない。

この自然では、自然法が支配している。

それは、聖書法よりも上位にある。

つまり、ローマ・カトリックは自然崇拝なのだ。

だから、聖書の神を信じているわけではない。

形では、キリスト教ということになっているが、実質は異教である。

自然理性は、自律的に科学を行うことができ、イエス・キリストにある復活・再生は不要。

ローマ・カトリックが作り出したディスペンセーショナリズムも、同じように神の法を軽んずる。

だから、今の福音派は、ローマ・カトリックと同類なのである。

神の法を唱えるわれわれを非難するのは、彼らが自然崇拝をしているからにほかならない。

神の法よりも人類に共通の自然法のほうがいいと。

私は「神の法を現代世界に適用するという危険な教え」を唱えたということで、免職と同然の扱いを受けた。

福音派は、ローマ・カトリックの自然崇拝を行っているため、神の法に敵対するのである。

宗教改革は、神の法を回復した。

宗教改革の業績はトマス・アキナスからの決別であった。

トマス・アキナスの再評価とは、実際のところ、自然崇拝の確立であり、福音派のさらなる異教化にほかならない。

本当のクリスチャンは、われわれのもとに来る。

聖霊はそのように促しているはずである。

このまま福音派がトマス・アキナスやディスペンセーショナリズムに汚染され続けるならば、本当に裁きがやってくる。

 

 

2016年2月2日



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