願わくば、最後までこの道を貫けるように


「ヴァン・ティルは古い」「偶像礼拝に目くじらを立てるべきではない」といって教理中心ではない経営をしたキリスト教の教育機関の責任者が最近亡くなった。

私の大学時代、お世話になった先輩である。

人柄は温厚で、学生時代の思い出としては「おでんパーティ」をしたり、下宿に遊びに行っていろいろ話あったりした。

しかし大学卒業前にクリスチャンになられたので、教理的な意味で深い議論をしたことがなかった。

そもそも、大学時代はテニスサークルに所属し、そちらの活動がメインの人だった。

学校の教師をして、その後献身をされたのを聞いて驚いた。そういう思想を扱うタイプの人だとは思っていなかったので。

最近開かれたクラブの同窓会には出席されていた(はじめての出席だった)。

人づてに私については「ヴァン・ティルにこだわりすぎ。もっと最新のものを勉強したほうがいい」と評価していたようである。

実は最初にヴァン・ティルの名前を聞いたのは、大学時代、彼の口からであった。

私は、この名前が脳裏に入り込んでその後ずっと離れなかった。

大学のゼミの卒論はヴァン・ティルについてであった。

振り返ると、不思議な縁を感じる。

ヴァン・ティルは「この世界に中立は存在しない」と説いた。

この世界が神の創造である以上、すべてについて宗教的中立は存在しないはずであると。

だから彼は「人間の認識は、神の追認識である」と述べた。

神が認識されたとおりに、人間も認識すべきであると。

神が同性愛を悪と見るならば、われわれもそれを悪と見るべきであると。

私は、この原則を適用することが、「近代の超克」への唯一の解決であると考えた。

近代世界は、カントの「人間が認識したものが真理だとしよう」という主観主義に支配されている。

「人間が同性愛を善とするならば、それを善としよう」と。

なぜならば「人間には、倫理に関して確実な知識は原理的に得られないのだから」と。

「いくら科学を発達させても、倫理の領域に関しては、客観的に確実な知識は得られないのだから」と。

ここに、近代人の世界観が完成した。

つまり「人間を疑似創造者とみなす」という前提から出発する世界観である。

私は、この世界観に唯一対抗できる世界観は「聖書啓示を前提とする世界観」であると考えた。

これを、ヴァン・ティルの前提主義という。

この思想は「聖書が同性愛を悪と述べているので、神の被造物である人間は、そのとおりに『同性愛は悪である』と信じるべきである」と主張する。

カントの前提主義は、疑似創造者である人間の認識を「前提」とする。

ヴァン・ティルの前提主義は、真の創造者である神の認識を「前提」とする。

もしキリスト教がヴァン・ティルの前提主義を採用しなければ、カントのそれによって汚染され、いずれ全体を乗っ取られるだろう。

実際に、そのことが起きている。

「ヴァン・ティルは古い」という教職者によって、キリスト教の教育機関は、徐々に妥協し、しまいには、同性愛を容認する、いや、同性愛の牧師すら現れるようになった。

「同性愛を罪悪視してはならない。あれも愛の一つの形態である」との主張が、すでにキリスト教界の主流の思想になりつつある。

もうキリスト教である必要はないのである。

そんなことを言い出すならば、キリスト教を名乗る必要はない。

なぜ、キリスト教大学を名乗るのか。なぜ宗教改革の後継者を名乗るのか。

すでに換骨奪胎されているのだから、名前も変えたらよい。

キリスト教の看板を下ろしたまえ。

要するに、ヴァン・ティルを捨てたら、全部ダメである。

「聖書啓示を前提として受け入れよ」と主張しないのであれば、早晩、あなたの教団は同性愛を受け入れて、神の呪いを受けるだろう。

キリスト教の生き残る唯一の道は、ヴァン・ティルからラッシュドゥーニーへの道である。

つまり「神の法によって世界を支配する」以外に、選択肢は残されていない。

私は、既存の教育団体や組織に加わってそこで出世しようとすれば、必ず「妥協から滅亡へ」の流れに加担する以外にはないと考えたので、一切の関係を絶った。

そのために多くのものを失った。旧友、組織的バックアップ、収入源・・・

全部失った。

しかし、そうするしかなかった。

願わくば、最後までこの道を貫けるように。

主の祝福を乞う次第である。

 

 

2017年11月11日



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