御言葉の学び、神学書の読書、祈り、礼拝・・・は、最高の快楽である
1.
パチンコの魔力とは、あたりがでたときに、脳内に流れる快楽物質に原因があると聞いたことがある。
CDがまだ売れていたころ、作曲家にとってヒットしたときの快感は忘れがたいものらしい。
億というお金が入ってくる。
PPAPのようなギャグが一発当たると、最低でも1億は入るとか。
昔、かなり給料のよい会社で働いていたころ、営業担当者一人当たりに課せられたノルマは途方もない金額だった。
業務の人の給料分や社屋代、電気代などを稼がねばならない。
大手予備校で教えていたころ、地元の塾などとは比較にならないほどのプレッシャーがあった。
常にビデオカメラで監視されている。
「よい給料をもらうには、それだけ犠牲が伴うのだな」と感じた。
おそらく作曲家や芸人など、一発当たると大きな額が手に入る世界には、それに応じた苦労があるのだろう。
医者の報酬はけっして高いとは思わない。
責任の重大さを考えると、もっともらってもいいとすら思う。
2.
ギャンブルにはまる人は、当たったときの快感が忘れられないのだろう。
それが罠になる。
サタンは、人の弱みを知っていて、どうやったら奴隷にできるか方法を知り尽くしている。
ギャンブルで身を持ち崩す人は、サタンの蜘蛛の巣にかかって調理されている獲物である。
ギャンブルではなくても人間には「依存症」になる弱さがある。
長年付き合っているものは、それが人であれ、物質であれ、常習化することがある。
常習化しやすいのは、酒とたばこなど嗜好品である。
神は、人間のストレスを緩和させるために、嗜好品を創造された。
しかし、そこにカフェインやニコチンなど、興奮や刺激を惹起する物質が入っているため、意志の弱い人は神が与えられた本来の範囲を逸脱して、それのとりこになる。
人間に溺れるケースもある。
アイドルやミュージシャンにはまって、抜け出せなくなる人がいる。
神は人間の生活に潤いを与えるために、特別な才能の人を用意される。
歌がうまい人、スポーツが得意な人、演技がうまい人・・・。
とくに巧みな人は、スターになり、人々の羨望の的になる。
「生活に潤いを与えるため」に与えられたものが常習化して、偶像になり、本末転倒に陥ることがある。
結局、神がお与えになった本来的な目的を逸脱しているかいないか常にチェックし、常に節度を保つ必要がある。
3.
人を成長させるために、神が一時的に夢中になるものや人を我々に与えることがある。
自分にとって学ぶ必要なものがある場合、それに数日間〜数年間没頭することがある。
それは、何かの栄養のようなものである。
ビタミンが必要なときに、それを含むものが非常にほしくなり、毎日食べ続けることがある。
われわれは神の作品だから、神の計画にしたがって我々に時に応じて必要なものを提供される。
神学校時代、むしょうに映画が見たくてしかたがなかった。
映像作品に飢えていた。
優れた作品を見た後は放心状態になった。
国内旅行が必要な時があった。全国津々浦々車で旅をした。
他人から見ると「贅沢をしている」とか「無駄なことに金を使っている」と見えるかもしれないが、神から見るとその人をある目的のために仕上げるのに必要なものだったのである。
それは、本人と神しかわからない。
親戚から白い目で見られたが、私には「これは、将来必ず役立つときがくる」と確信があった。
それが今日、聖書的世界観を考え、発表するのに生きていると思う。
4.
私は、人間からどう見られてもいい。
人は私のことを理解してくれない。
それを期待してもいけないし、相手の期待に合わせて自分を変えてもいけない。
あくまでも神がどうご覧になるかが重要。
この、世界が大きく変わりつつある今日、私は様々な妨害に悩まされているが、それも人がどう見るかはどうでもいい。
調子がいいとは言えないが、それは、神が許されたことであって、人は関係がない。
神はその調子が悪い状態をあえて与えておられるかもしれない。ある目的のために。
5.
ギャンブルで得られる脳内快楽物質は、信仰を失い、祈りを失った人間の、神との交流の「代替品」である。
御言葉の学び、神学書の読書、祈り、礼拝・・・は、最高の快楽である。
祈りに没頭し、聖霊が働いて、心から次々と祈りが出てくるトランス状態を体験したら、ギャンブルや麻薬に手を出すことはないだろう。
御言葉や神学書を読んで新しい事実を知ったときに味わえる充実感とスリルがあれば、一発当てる必要もない。
ギャンブルや麻薬、偶像礼拝には、充実感はない。
しかし、聖霊が働かれる祈りや学びにはそれがある。
そういう体験をしたことがない人は気の毒である。
2016年11月24日
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