再臨が2度の聖めとして2度起きると考えなければ聖書を合理的に解釈できない。
(1)
聖書は、「主の来臨は近い」と述べている。
わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。(黙示録3・11)
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。(黙示録22・12)
黙示録の記述は、われわれの未来に起きることではなく、すでに紀元一世紀に起きたことである。なぜならば、「すぐに起こるはずの事」だからである。
イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。(黙示録1・1)
プレ・ミレの人々は、「いや、これはわれわれにとってすぐに起こるはずの事」なのだ、という。
しかし、黙示録は誰に向けて書かれたのか。
ヨハネの手紙の読者である。
つまり、紀元一世紀の人々である。
イエスは誰に対して「すぐに来る」と言われたのだろうか。
ヨハネと読者である。
つまり、紀元一世紀の人々である。
イエスは終始、来臨はすぐに起きると述べておられる。
まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。(マタイ16・28)
「人の子が御国とともに来る」のはいつか。
「ここに立っている人々」の中のある人々がまだ「死を味わわない」うちである。
つまり、イエスと同時代、紀元一世紀である。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マタイ1・15)
「時が満ち、神の国は近くなった」と言われたのは誰に対してか。
紀元一世紀の人々に対してである。
イエスは、御国は紀元一世紀に来ると言われたのである。
前の箇所において、イエスはご自身が「御国とともに来」ると言われので、来臨の時期も紀元一世紀である。
プレ・ミレの言うように、マタイの「御国」がわれわれよりも未来に起きるならば、「時が満ちたので、御国は近い」と言われたイエスは嘘つきということになる。
来臨は、神殿が崩壊し、古いシステムが消滅した紀元70年にあったと考えるべきだ。
神殿とは、神の住まいであり、御国の中心であるから、神殿が崩壊し、その代わりにクリスチャンの体が神殿になった(1コリント6・19)ことは、御国が変貌した、つまり、オールド・ワールド・オーダーからニュー・ワールド・オーダーに変わったことを意味する。
イエスが言及された来臨とは、旧約時代を裁くためのものであって、われわれの未来にある終末の世界の審判のためではない。
文脈はそのことを示している。
イエスが「来臨前警告」をされたのは旧約のイスラエルの民に対してであり、われわれの未来におけるイスラエルに住む人々に対してではない。
おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。
だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。
それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。
まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。
ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。(マタイ23・33-38)
「これらの報いはみな、この時代の上に来ます」と言われた。
「この時代」とは、われわれの未来か?
違う。
「わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行く」。
今、イスラエルでこのようなことが行われているか?
十字架刑が実行されているか。会堂でむち打ち刑が行われているか。
ノーだ。
つまり、「この時代」とは、紀元一世紀のイエスの時代にほかならない。
この警告を神殿内の人々に行ってから、イエスはそこを出、その神殿について預言をされた。
イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(マタイ24・1-3)
「神殿崩壊」は「あなたの来られる時」に起き、「世(原語では「時代」)の終わり」に起きるとはっきりと言われている。
この神殿は、われわれの未来に建てられる神殿だろうか。
ノー。
イエスが示したのは「宮の建物」である。
イエスが言及されたのは「このすべての物」である。
ルカではさらにはっきりする。
「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」(ルカ21・6)
「あなたがたの見ているこれらの物」である。
あなたがたとはだれか?
われわれか?
ノー。
弟子たちだ。
弟子たちが見ているこれらの物とは、もちろん、イエスの当時建っていた神殿である。
イエスは、紀元一世紀の神殿の崩壊について預言された。
つまり、プレ・ミレが終末預言とみなしている福音書や黙示録の記述は、実は紀元一世紀における神殿崩壊と旧約時代に対する裁きに関するものなのである。
(2)
それでは、聖書の記述は、そのすべてが紀元一世紀に関する預言なのか。
ノー。
新天新地には二種類ある。
死がある新天新地と、死がない新天新地。
見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。
だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。(イザヤ65・17-20)
ここでは、死ぬ者がいる新天新地が記述されている。
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、{また彼らの神となり、}
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21・1-4)
紀元70年に神殿が崩壊し、世界秩序が変わった。
その際に、イエスは天の王座に正式に着かれ、万物の王になられた。
天地のあらゆるものが十字架によって神と和解し、聖められた。
神は…その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)
これは法的な聖めである。
実際には、弟子たちの前には旧約時代とまったく変わらぬ世界が広がっていた。ローマ人も、アングロサクソンもゲルマンもみな、野蛮人だった。
イエスは弟子たちに対して「すべての国民を弟子とせよ」と言われた。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々(原語では「すべての国民」)を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。(マタイ28・19)
弟子たちとその教会の伝道を通じて、ローマ人、アングロサクソン、ゲルマンが変わった。
弟子化され、律法を守るようになった。
ヨーロッパにおいてキリスト教文明が花開き、機械文明が生まれ、世界を凌駕する力を蓄えるようになった。
ヨーロッパ文明は、世界を飲み込んだ。
われわれが今日享受している生活は、ヨーロッパにおけるキリスト教文明に多くを負っている。
昔闘技場で人と人を戦わせて殺し合いを楽しんでいたヨーロッパ人は、今日バッハの音楽を聞くためにコンサートホールに足を運んでいる。
旧約時代においてはユダヤ人だけが御言葉によって訓練されていたが、今日ではすべての国民が訓練されている。
もちろんヒューマニズムという名の反文明が人々を野蛮な生活に逆戻りさせようとしているのであるが。
紀元70年から始まった新天新地は死のある新天新地。
つまり、完全ではない新天新地。
徐々に発展しつつある新天新地。
しかし、キリストの再臨後にやってくる新天新地は、完成された世界。死のない新天新地。
われわれは今、「弟子化されつつある世界」に生きている。
「地を従えよ」との命令はわれわれクリスチャンに与えられている。
地が福音で満ち、すべての国民が聖書にしたがって歩むように訓練され、黄金の千年期が到来し、最後に再臨が起きる。
この2段階の聖めこそが歴史の過程である。